冬の終わりを告げる朝の光が差し込む窓辺で、わたしは母の介護という名の迷路に立っていた。専門家の描いた週五日のデイサービスは、和菓子職人だった母の魂を少しずつ色褪せさせていく。母の「行きたくない」という囁きを風のように聞き流しながら、わたしは減給通知と請求書の山に埋もれていった。送迎車内で吐き気を催した母が握りしめていたのは、柚子の香りを閉じ込めた小さな布袋—その人生の証。深夜の台所で交わした柚子茶の温もりと母の「二人で考えましょう、別の道を」という言葉に、わたしは「家族が主語になる介護」という光を見出した。制度ではなく、母の望みを中心に据えた生活を模索する旅が、静かに始まっていた。
要件定義手法のデモとして、『虹琥珀が透けるまで』というAI生成小説を用い、「ノベル・ビジョニング・メソッド」の可能性を示すために作成しました。今回は介護業界において、マイケアプラン作成のためにAIを活用するというシナリオでの小説になります。
概要
「ノベル・ビジョニング・メソッド」は、要件定義の初期段階で小説を作成し、顧客やステークホルダーに読んでもらうことで利用イメージを共有・議論を喚起する新手法です。
本デモ小説『虹琥珀が透けるまで』は、介護開始から退院後の在宅ケアまでを、主人公とその家族の視点で詳細に描くことで、福祉・介護現場の課題や感情をリアルに体験させます。
主な特徴
- テーマベースの執筆
- 「在宅介護開始」という明確なテーマに沿い、フェーズごとの場面を章立てして構成。
- キャラクター創造
- 78歳の和菓子職人・富子さんと、その娘由子さんを核に、家族それぞれの葛藤や希望を丁寧に描写。
- 場面設定
- 救急搬送、書類手続き、退院後の車いす移動まで、視覚・聴覚・感情を刺激する臨場感ある描写。
- ストーリー構成
- 起承転結だけでなく、「満足度スコアリング」の導入など、要件定義のアクティビティを物語内に組み込み、読者自身が課題を共有できる設計。
技術的特徴
- 自然言語処理による文脈理解と展開
- キャラクター性格データベース活用
- 物語構造分析に基づくプロット生成アルゴリズム
GPTベースのモデルで、医療・介護用語や日常会話を区別しながらストーリーを一貫性高く生成。
登場人物ごとに「誇り高い職人」「新設DX部署の係長」「遠方の兄妹」などの性格プロファイルを保持し、発言や行動に反映。
「危機→手続き→暫定プラン→家族会議→スコアリング→新たな決意」という典型的なドラマチック・アークを、要件定義フローに対応させる仕組み。
デモの目的
- AI技術の創造的応用可能性の探求
- ステークホルダー共感の醸成
- 要件 elicitation の効率化
文章生成だけでなく、要件定義現場に「物語」を取り入れる新たなアプローチを提示。
小説を通して、ケアプラン利用者や家族の感情・行動を体感し、業務担当者の理解と議論を深める。
読後のQ&Aやワークショップを通じて、抽象的な要望を具体的な要件に落とし込むフレームワークを実証。
お問い合わせ
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お問い合わせ第2章 不協和音の増幅
第1節 崩れゆく想定
朝の光が窓辺に滲むとき、わたしは毎日同じ祈りを繰り返していた。今日こそ、このプランが母に合うと証明される日になりますように。そして同時に、胸の片隅では既にその祈りが空虚なものだと理解し始めていた。退院から二週間、わたしたちの日常は確かに形を得たが、それは想像していたものとはあまりにも異なる形だった。
母の部屋のドアを静かに開けると、朝の八時だというのに、彼女はまだベッドで横になったままだった。昨日のデイサービスから帰ってきてからほとんど起き上がらず、夕食もほんの少しだけつまんで、早々に休んでしまった。それがここ一週間の繰り返しだった。
「母さん、そろそろ送迎車が来るよ」
声をかけても、母は小さくうなずくだけで、目を開けようともしない。その姿に、わたしの心は細く引き裂かれた。「週5のデイサービスなら介護の負担が軽減される」—そう説明を受けたときの安堵感は、今では幻のように思える。
リビングのテーブルには、朝食の痕跡が残っている。わたし一人分の食器と、ほとんど手をつけられていない母の朝食。かつては母が朝一番に起き出して、柚子の皮を刻んでいた台所が、今では静けさに包まれている。その静寂の中に、わたしたちの失われた日常が沈殿していくようだった。
◆
介護保険の仕組みを調べながら過ごした夜の記憶が、頭の片隅でうずくような感覚がある。パソコンの青白い光に浮かぶ無数の情報の断片—「認知症ケア」「リハビリの重要性」「介護者のレスパイト」。それらの言葉が、現実の母の姿とどこか噛み合わない。もっと適切な情報はないのかと夜な夜な検索を続けているうちに、朝日が昇ることもあった。
「田口さん、お迎えに参りました」
玄関のチャイムが鳴り、デイサービスの送迎スタッフの声が響く。窓から見える送迎車には、既に数人の高齢者が乗り込んでいる。母はようやく身支度を整え、わたしに支えられながら玄関へと向かった。
「行きたくないわ」
ドアを開ける直前、母が耳元で囁いた。その声は風のように繊細で、それでいて岩のように固かった。わたしは一瞬足を止めたが、すぐに笑顔を作って母の背中を押した。
「大丈夫だよ、今日も頑張ってきて」
その言葉を口にした瞬間、自分の中に広がる虚偽感に呑まれそうになった。母の意思に反して送り出すことの罪悪感。それでも、せっかく準備してくれたケアプランを拒否するわけにはいかないという強迫観念。それらが交錯する心の風景は、冬の霧のように鉛色で不透明だった。
送迎車が角を曲がって見えなくなるまで、わたしは玄関に立ち尽くしていた。そして振り返ったとき、家の中の静寂があまりにも重く感じられた。この静けさは、わたしが求めていたはずの「負担軽減」の証なのに、どこか深い喪失感を伴っている。
時計を見れば、わたしの出勤時間まであと四十分。昨日までの慌ただしさから解放されたはずなのに、その自由時間が妙に居心地悪く感じられた。わたしは母の部屋に入り、だらんと横たわったベッドのシーツに触れた。冷たくなった枕に、母が眠れずに過ごした夜の痕跡を感じる。
◆
スマートフォンを手に取り、母の状態について情報を探す手が止まらない。「高齢者 疲労 デイサービス」「要介護 精神的負担」そして「AIアシスタント 介護相談」。このような検索を繰り返す自分に気づき、思わず笑みが浮かぶ。専門家でもないのに、何か魔法のような解決策が見つかるとでも思っているのだろうか。
職場の自分のデスクに向かいながら、わたしの思考は常に母の元へと引き戻されていた。今頃は機能訓練の時間だろうか。昨日のように無理に体を動かして、また調子を崩していないだろうか。
「田口さん、この資料確認お願いします」
同僚の声に我に返る。デスクの上には未処理の書類が山積みになっていた。ここ二週間、母の退院準備と新しい生活のセッティングに追われ、仕事の進捗は明らかに遅れていた。
資料を開きながら、わたしは自分を責め始めていた。せっかくケアマネジャーが綿密に組んでくれたプランなのに、なぜ母はこうも疲れてしまうのか。あれほど機能訓練が大切だと説明されたのに、なぜわたしは母の「行きたくない」に揺らいでしまうのか。
窓の外の曇り空は、わたしの内側の風景と不思議に同調していた。はっきりとしない灰色の雲が、どこかへ行こうとしてもどこにも行けずに漂っている。わたしたち親子もまた、新しい日常という名の灰色の霧の中で、行き場のない不協和音を奏でているようだった。
◆
夕方、デイサービスから帰ってきた母の顔は、朝よりもさらに疲れていた。車いすから自宅のソファへ移る間も、母の息遣いは苦しげだった。
「今日はどうだった?」
わたしの問いかけに、母はただ目を閉じるだけで何も答えなかった。その沈黙が、千の言葉よりも雄弁に状況を物語っていた。
母の手を握ると、かつて和菓子を作るときにはしなやかだったその指が、今は冷たく、少し震えている。わたしは母の横顔を見つめた。八十に近い年齢を重ねながらも、和菓子職人としての誇りを失わなかった母。その母が、ただ「プラン通りに過ごすこと」にこれほど消耗してしまうことに、深い矛盾を感じずにはいられなかった。
「無理しなくていいんだよ」
そう言いかけて、わたしは言葉を飲み込んだ。その言葉の先には何があるのだろう。デイサービスを減らすこと?ケアプランの変更?しかし、そうすればわたし自身の負担は増える。仕事と介護の両立は、今でさえ綱渡りのようなバランスだった。
夕暮れの光が部屋を薄紫色に染めていく。母の苦しそうな寝息を聞きながら、わたしは思い返していた。あの病院の会議室で、灰色の予定表を見たときの違和感。あのときにもっと母の声に耳を傾け、違うプランを模索するべきだったのではないか。
だが同時に、「せっかく専門家が考えてくれたプラン」を否定する罪悪感も拭えない。わたしたちは素人だ。介護保険制度も、リハビリの専門知識も持ち合わせていない。それなのに、「このプランは母に合わない」と言い切る資格があるのだろうか。
もしかしたら、どこかにヒントがあるのではないか。インターネットの海には、わたしたちと同じような悩みを抱えた人々がいるはずだ。そんな思いで、母が眠った後の静かな夜に、わたしはまた検索の日々を続けるのだった。
母の額に触れると、少し熱があった。明日は熱が下がるといいな、と思いながらも、わたしの心の片隅では別の思いが芽生えていた。もしかしたら、この熱が母を明日のデイサービスから解放するかもしれないという、後ろめたい安堵感。
窓辺に立ち、沈みゆく夕日を見つめながら、わたしは自問していた。なぜ「母のため」と信じて始めたはずのプランが、母を苦しめるものになってしまったのか。そして、このジレンマからどうすれば抜け出せるのか。
答えのない問いを胸に抱えたまま、わたしは夕食の支度にとりかかった。明日もまた同じ一日が繰り返される。母の苦しい表情が頭から離れないまま、わたしたちの灰色の日常は続いていくのだろうか。
第2節 減給通知の衝撃
冬の光は午後になると急に傾き、窓からの日差しが事務机の上に長い影を落とす。その影が短くなるころ、わたしの携帯電話が震えた。ディスプレイに「デイサービスセンターさくら」の文字。直感的に何かが起きたとわかり、鉛のような重さを胸に抱えながら応答した。
「田口様、大変申し訳ありません。お母様が体調を崩されまして」
電話の向こうの声は丁寧だが、その言葉の一つ一つが硬い石のようにわたしの内側に積み重なっていく。胃の辺りに何かが沈んでいくような感覚。これで三度目だった。退院から三週間、母はデイサービスで毎回のように体調を崩す。
「すぐに迎えに行きます」
返事をしながら、自分の声が遠くから聞こえてくるようだった。会議資料の山を前に、そっと立ち上がる。同僚たちの視線が、わたしの背中に刺さるのを感じた。
「課長、すみません。母の具合が悪いようで…」
上司の吉田課長は、窓際の席から顔を上げ、静かに眼鏡を外した。その仕草には、何かを諦めたような、微かな疲労感が滲んでいた。
「また早退ですか、田口さん」
疑問形でありながら、そこに問いはなかった。ただ事実を確認するような、平坦な口調。わたしは無言で頷いた。言い訳も、約束も、もう響かないことを知っていた。
「この書類、今日中に処理しておいてください」
彼は一枚の紙をわたしの方へ滑らせた。それは普通の業務連絡のように見えたが、表題を読んだ瞬間、わたしの血の気が引いた。
「勤務時間調整に伴う給与変更のお知らせ」
文字が踊り、頭の中で意味を成さなくなる。それでも、要点は容赦なく目に飛び込んできた。「度重なる早退・欠勤による業務支障」「職場の公平性確保のため」「今後は実働時間に応じた給与調整」。
「来月からの適用です。ご理解いただけると幸いです」
吉田課長の声には、責めるような調子はなかった。それがかえって重く響いた。これは罰ではなく、単なる業務上の調整だという事実。誰かの怒りならば反発することもできるが、合理的な判断の前では言葉を失う。
「わかりました」
わたしは紙を手に取り、カバンにしまった。その手が、かすかに震えていることに自分でも気づいた。
◆
デイサービスセンターに着くと、母はソファに横たわっていた。顔色は土気色で、目の下には疲労の影。看護師が説明してくれる体調不良の詳細を、わたしは断片的にしか聞き取れなかった。頭の中では、減給通知の活字が波のように押し寄せてきては引いていく。
「大丈夫ですか、お母さん」
母の手を取ると、その冷たさに胸が痛んだ。かつて和菓子を作るときには柔らかく温かだったこの手が、今はか細く、儚い。
「ごめんね、由子…また迷惑を」
母の謝罪が、胸の奥深くで何かを引き裂いた。迷惑なのは母ではない。この状況でもなく、この制度でもない。ただ、わたしがどこにも収まらない矛盾にいることが、誰のせいでもない現実が、胸を締め付ける。
車に母を乗せ、シートベルトを装着させながら、わたしは「もう少し、もう少し頑張れば」と自分に言い聞かせた。だが、その「もう少し」の先に何があるのか、もはや想像できなくなっていた。
「どこからか解決策を見つけなきゃ」
言葉にならない思いが胸の奥で渦巻く。そのとき、車内のラジオから流れてきたニュースが耳に飛び込んできた。
「人工知能技術の進化により、介護分野でのデジタルアシスタントの活用が広がっています。特に家族介護者をサポートする新たなツールが…」
わたしはハンドルを握る手に力が入るのを感じた。これまで何度も検索していた「最新技術」「介護支援」。その断片が、現実の音声として響いている。これはわたしへの何かのサインだろうか?でも、そんな便利なものがあるはずがない。それでも、帰宅後に調べてみようという小さな希望が胸に灯った。
◆
夕食の支度をしながら、キッチンの窓から見える夕焼けが、不思議と目に染みた。減給通知をテーブルに広げ、家計簿を開く。数字を並べ、引き算し、再び並べる。そうしていれば、感情が麻痺するような錯覚があった。
数字は冷淡だった。来月から約二割の減収。それは具体的な金額となって、家計を直撃する。住宅ローン、光熱費、食費、そして母の介護にかかる自己負担分。引き算を重ねるごとに、余白が狭まっていく。
家計簿の前で呆然と座り込んだ時、ふと母の寝息が聞こえた。隣の部屋で横になっている母は、今日の疲れから早々に眠りについていた。その小さな寝息に、わたしの中の何かが崩れ始めた。
母の介護と自分の生活。
選択を迫られているような錯覚に陥る。だが、それは選択ではなく、二つの現実が同時に存在しているという事実。どちらも放棄できず、どちらも完全には成り立たない。その狭間で、わたしは宙吊りになったような感覚に襲われた。
パソコンを開き、さっきラジオで耳にした情報を検索する。「AI 介護 アシスタント」「デジタル 家族ケア 支援」「介護プラン 最適化 AI」。検索結果の海から、わたしは一つの記事に目を留めた。「マイケアプラン:AIの力で自分らしい介護を見つける」。
好奇心と疑念が交錯する思いで、わたしはその記事をブックマークした。ラジオで聞いたような救世主的な技術ははないかもしれないが、何か少しでもヒントになるものがあれば…。そんな淡い期待を胸に、わたしは検索を続けた。
窓の外では、夕暮れの空が深い藍色に変わりつつあった。かつて母は「この時間の空の色を和菓子に閉じ込めたい」と言っていた。その言葉を思い出し、わたしは窓際に立ったまま、静かに涙を流した。
涙は、減給に対する怒りからではなく、むしろ怒る対象すら見つからない虚無感から来ていた。誰のせいでもない。制度は機能し、会社は合理的で、母はただ年を取り、わたしはただその間に立っている。そんな当たり前の現実が、なぜこれほど息苦しいのか。
台所の時計が七時を告げた。わたしは涙を拭い、再び家計簿に向かった。数字と向き合いながら、静かに自問する。母の介護と自分の生活のどちらを優先するのか、考えたくない選択を迫られているようで、それでも明日には答えを出さなければならない。
減給通知は、まだテーブルの上に開かれたままだった。それは単なる紙片でありながら、わたしの人生の分岐点を告げる地図のようにも思えた。どの道を選べば、この灰色の日々から抜け出せるのか。その答えは、まだ闇の中に隠されていた。
第3節 吐き気と柚子の匂い
朝の光は、冬の終わりを告げるように少しずつ温かさを帯び始めていた。窓越しに差し込む日差しは、母の肌に繊細な陰影を描き出す。退院から一ヶ月が過ぎ、日常という名の時間が静かに流れ始めていたものの、その時間は常に小さな亀裂を孕んでいた。
この日も、毎朝の儀式のように母を車いすに乗せ、デイサービスの準備をしていた。母の瞳の奥には、言葉にならない訴えが潜んでいる。それを見て見ぬふりをする自分の罪悪感は、朝の光の中で一層鮮明に浮かび上がる。
「今日はどう?少し良くなった?」
母の顔色を窺いながら問いかけると、彼女は小さく頷いた。だが、その動きには躊躇いがあり、眼差しは窓の外へと逃げるように向けられていた。昨日も一昨日も、母はデイサービスから疲れ切って帰ってきた。それでも今日もまた送り出す。この繰り返しの中に、わたしたちの生活は閉じ込められている。
それでも夜の検索は続けていた。特に最近は「マイケアプラン」「家族主体 介護」の言葉が、わたしの心に小さな希望を灯している。専門家の言葉ではなく、同じような立場にある家族たちの体験談に、わたしはかすかな共感を覚え始めていた。「家族が主語になる介護」—そんな言葉が、頭の片隅で静かに反響していた。
◆
玄関先で待つ送迎車。ドアが開くと、既に数人の高齢者が座っていた。彼らの表情には様々な感情が交錯している—諦め、安堵、不安、そして時折見せる静かな喜び。その感情の地図の中に、母を送り込むことへの迷いが、わたしの中で膨らんでいく。
「行ってきます」
母の言葉は、風に揺れる蝋燭の炎のように弱々しかった。それでも彼女なりの決意が込められていることを、わたしは感じ取っていた。
正午過ぎ、机に向かいながら窓外の雲の動きを追っていたとき、携帯が震えた。ディスプレイに「デイサービスさくら」の文字。この一ヶ月で、その名前を見るたびに胃が締め付けられる感覚に慣れてきていた。
「田口様、申し訳ありません。お母様が体調を崩されて…」
電話越しの声は、既に何度も聞いた台詞を繰り返していた。しかし今回は、声のトーンに切迫感があった。
「吐き気を催されまして、送迎車の中で…」
言葉の断片が、わたしの意識の中で徐々に形を成す。母が乗車中に嘔吐したという現実。それは単なる体調不良ではなく、母の身体が発するある種の拒絶の信号のようにも思えた。
「すぐに向かいます」
受話器を置き、再び早退の準備をしながら、減給通知の文言が頭をよぎる。それでも足は自然と母のもとへと向かう。家族の時間と職場の時間は、重なり合いながらも互いを押しのけるように存在していた。
◆
デイサービスセンターの入り口で、センター長の中村さんが待っていた。母はすでに処置室で横になっているという。駐車場に停まった送迎車が目に入った。車内の清掃が終わったばかりのようで、窓が開け放たれている。
「こちらです」
中村さんに導かれ、わたしは処置室のドアを開けた。ベッドに横たわる母は、顔色が青白く、目を閉じていた。看護師が脇に立ち、静かに様子を見守っている。
「お母さん」
わたしの声に、母はゆっくりと目を開けた。その瞳には謝罪と恥じらいが混ざり合っていた。わたしは母の手を握り、冷たくなった指先を感じた。かつてはこの手で繊細な和菓子を形作っていたことが、今は遠い記憶のように思えた。
「すみません…迷惑かけて」
母の言葉に、胸が痛んだ。迷惑なのは母ではない。この状況に合わない制度であり、それを修正できないわたし自身の無力さだ。
「お母さまは、車内で急に気分が悪くなられたようです」看護師が説明した。「車を止めて処置しましたが、他の利用者さんもいらっしゃって…」
言葉の途切れた先に、想像が広がる。狭い車内での混乱。驚き、動揺する他の利用者たち。申し訳なさそうな母の表情。それらの光景がわたしの中で生々しく浮かび上がった。
「詳しい事情は運転手から」
廊下に出ると、送迎車の運転手が待っていた。疲れた表情の中年男性は、帽子を手に持ちながら頭を下げた。
「大変申し訳ありませんでした。突然のことで…」
わたしは慌てて頭を下げ返した。謝るべきはこちらのはずなのに、言葉が喉につかえる。
「あの、ひとつだけ」彼は少し躊躇った後に続けた。「お母さまが持っていた小さな布袋、あれは何でしょうか?」
「布袋?」
「はい、嘔吐の直前、ずっと握りしめておられて。柚子の香りがしたように思います」
その言葉に、わたしの胸の奥で何かが震えた。柚子の香り—母が和菓子職人として生きてきた証。その香りは母のアイデンティティそのものだった。夜の検索で目にした「その人らしさを大切にする介護」という言葉が、唐突に脳裏をよぎる。制度の枠組みではなく、母という一人の人間を中心に据えた生活。そんな可能性があるのではないかという、かすかな光が見え始めていた。
◆
送迎車に近づくと、窓から漂う微かな酸味を含んだ香りが鼻をついた。嘔吐物の臭いと、かすかに残る柚子の香りが混じり合った複雑な匂い。その香りは奇妙にも、わたしたちの現状を象徴しているようだった—純粋な喜びと苦しみが不可分に絡み合った日々。
車内を覗くと、清掃された座席には微かな水滴が残っていた。そこには他の乗客たちの戸惑いの痕跡も、母の恥辱の記憶も、もう形としては残っていない。しかし、その出来事は確かに起こり、わたしたちの現実を変えつつあった。
帰り道、助手席に座る母は窓の外を見つめたまま、ほとんど言葉を発さなかった。沈黙が車内を満たしていたが、それは単なる無言ではなく、互いの心の内側で渦巻く思いの静寂だった。
「母さん、あの布袋は何?」
信号待ちの間に、わたしは尋ねた。母は小さくため息をついて、鞄の中から小さな絹の袋を取り出した。摩耗した縁と色褪せた花柄が、長い時を経たことを物語っている。
「これね、昔使っていた柚子の皮を入れる袋よ」母は静かに言った。「朝、ちょっと持って出ただけ…」
その「ちょっと」という言葉の裏に隠された深い意味に、わたしは胸を突かれた。母にとって柚子の香りは、単なる趣味や好みではなく、生きる意味そのものだった。その本質的な部分が、今の生活から切り離されていることの痛みを、初めて鮮明に感じた。
「これなら、どこへ行っても柚子の香りがあるでしょう」
母の言葉に、わたしの目に涙が浮かんだ。そう、母は自分なりの方法で、この状況に適応しようとしていたのだ。小さな布袋に詰めた柚子の皮が、彼女のアイデンティティを守る砦になっていた。この事実に気づかなかったわたし自身の鈍感さに、後悔の念が押し寄せる。
車窓から見える街並みは、いつもと同じなのに違って見えた。日常の風景が、新たな気づきの光の中で別の表情を見せている。わたしたちが従ってきたプランは、母の本当の姿を映し出していなかった。それは単に「要介護者」という枠組みの中に母を閉じ込めようとするものだったのかもしれない。
◆
家に着いて母をソファに座らせたとき、わたしは決意した。このままでは続かない。このプランは母を苦しめるだけだ。しかし、その先にある選択肢はまだ霧の中にあった。わたしは窓辺に立ち、沈みゆく夕日を見つめながら、この灰色の日々から抜け出す道を探し始めていた。
帰宅後すぐに、わたしはパソコンを開いた。ブックマークした「マイケアプラン」の記事をもう一度読み返す。「家族が主語になる介護」「本人の望みを中心に据えた生活の再構築」。これらの言葉が、今までよりずっと具体的な意味を持ち始めていた。母が持っていた柚子の袋は、制度の隙間から零れ落ちる彼女の本質を象徴していたのだ。
母の手に握られた柚子の袋から漂う繊細な香りは、かつての日常の記憶と、これから見つけるべき新しい道の可能性を同時に運んでくるようだった。それは、まだ見ぬ虹の色を予感させる、かすかな光だった。
第4節 あふれる請求書
キッチンのテーブルに降り注ぐ朝の光は、積み重なった書類の山に影を落としていた。一枚、また一枚と重なり合う請求書の束。それらは単なる紙片ではなく、わたしたちの日々の選択と迷いが具現化したものだった。母が入院してから二ヶ月弱。その間に、生活の輪郭は少しずつ変容し、今ではこうして請求書という形で、わたしたちの前に立ちはだかっている。
指先でひとつの封筒の端を撫でながら、わたしは時間の不思議な性質について考えていた。封を切るという単純な行為にも、いつしか恐怖を感じるようになっていた。中に何が入っているかは、開けなくてもわかっている—それは新たな負債の告知、支払いの催促、わたしたちの生活を数字で切り取った現実の断片。
「何を見てるの?」
母の声にはっとして顔を上げると、車いすに座った彼女が、キッチンの入り口に佇んでいた。朝日に照らされた横顔には、かつての和菓子職人としての誇りが今も残っている。しかし、その眼差しには不安の影が宿っていた。
「ちょっと、書類の整理を」
わたしは微笑みながら嘘をついた。母に心配をかけたくないという気持ちと、この経済的現実から彼女を守りたいという思いが、言葉を歪めた。しかし、母の眼差しは鋭かった。彼女は黙ってわたしの手元に視線を落とし、封筒の束を見た。
「請求書ね」
単純な言葉。しかしその言葉には、七十八年生きてきた人間の観察力と諦観が込められていた。母はゆっくりと車いすを寄せ、わたしの隣に停めた。
「一緒に見ましょう」
◆
母の手が封筒に触れる様子には、かつて和菓子を作るときの繊細さが残っていた。彼女は一通一通を丁寧に開け、内容を確認していく。デイサービス、訪問介護、医療費、薬剤費—さまざまな名目の請求書が、テーブルの上に広がっていった。
「一時立替って書いてあるわね」母が一枚の用紙を指差した。「これはどういう意味?」
わたしは説明しようとして、言葉に詰まった。ソーシャルワーカーから説明を受けたはずの制度の仕組みが、今となっては霧の中の景色のように曖昧にしか思い出せない。要介護認定が下りるまでの間、サービスの費用は一旦全額自己負担で、後から差額が返還される—そんな説明だったことは覚えているが、具体的な手続きや期間については、あの混乱の中で理解し損ねていた。
「わたしにもよくわからないの」正直に答えた。「ケアマネさんに聞いてみるね」
これもまた、わたしが夜な夜な検索で見つけた情報の断片だった。「介護保険 一時立替 手続き」「高額介護サービス費 請求方法」—それらの言葉の海から拾い上げた知識は、まだ自分のものになっていなかった。
母が静かに頷く。その視線は、すでに次の封筒へと移っていた。「これは何?」
薄いピンク色の用紙。それは病院からの請求だった。退院時の精算に加え、その後のリハビリ通院の費用が記載されている。数字の羅列を見ていると、人間の身体が部位ごとに値段がつけられ、治療という名の商品が売買されているかのような不思議な感覚に陥る。
封筒を開けていくうちに、一つの現実がわたしたちの前に鮮明に姿を現してきた。それは「制度」という名の複雑な迷路の存在だった。一時立替、限度額適用、高額療養費、保険適用外—それらの専門用語は、わたしたちの生活に突如として現れた異物のようだった。
「ねえ、由子」母が静かに言った。「この紙の山、どうやって片付けるの?」
その問いには二重の意味があった。物理的な書類の整理という意味と、経済的負担という現実への対処という意味。わたしは両方の答えを持ち合わせていなかった。
「わたしも調べているところなの」
わたしは少し躊躇いながら言った。「インターネットで検索してみたら、私たちと似たような状況の家族の体験談が載っていて…」
わたしの言葉に、母の目が少し開いた。「あなた、夜遅くまでパソコンを見ているのね」
その言葉に、わたしは軽く息を呑んだ。母は気づいていたのだ。わたしの夜の検索の日々を。彼女の観察力は、衰えるどころか研ぎ澄まされているようだった。
◆
午後の陽射しがテーブルを斜めに横切るころ、わたしは電卓を手に、黙々と数字を打ち込んでいた。足し算、引き算、割り算—そうして出た結果は、わたしたち親子の生活を圧迫する重さを持っていた。減給された給与と、膨らむ介護費用の差額。その溝は日に日に広がっていく。
母は午睡のために部屋で休んでいた。彼女の小さな寝息が聞こえてくる静寂の中で、わたしはこの家の未来を電卓に問いかけていた。しかし、数字は冷淡だった。減収と支出増の方程式は、単純な解を持たない。
ふと、携帯電話が鳴った。ディスプレイには「兄」の文字。どこか安堵感と同時に緊張が走る。浩一はこの状況をどう捉えているのだろう。遠く離れた地からわたしたちの苦境をどう見ているのか。
「もしもし、由子?元気か?」
兄の声には、いつもの穏やかさがあったが、どこか緊張感も滲んでいた。
「うん、なんとか」
それ以上の言葉が見つからなかった。本当は言いたかった。請求書の山のこと、減給のこと、母の疲弊のこと、わたし自身の不安のこと。でも、遠く離れた兄に何を求められるのか、わからなかった。
「実は今週末、帰省しようと思ってるんだ」兄が続けた。「母さんの様子も見たいし、あと…」
一瞬の沈黙。
「請求書の処理、手伝うよ」
その言葉に、わたしの視界が歪んだ。涙ではなく、驚きと安堵が混じった感情が、目の前の景色を揺らした。兄は知っていたのだ。言葉にはしなくても、わたしたちが直面している経済的な壁を。
「どうして…」
「母さんから聞いたんだ。一時立替の書類が山積みになってるって」
電話の向こうで、兄は少し笑った。「俺、経理部だからな。こういうの得意だよ」
「ありがとう…」わたしの声が震えた。「あのね、最近ネットで『マイケアプラン』って言葉を見つけたんだ。もしかしたら、今のプランを見直せるかもしれない」
「それ、面白そうだな」兄の声にも興味が滲んでいた。「週末に詳しく話そう」
◆
通話を終え、わたしは窓辺に立った。ふと、母のノートパソコンに対する態度を思い出す。彼女は最初こそ警戒していたが、最近は少しずつ興味を示し始めていた。「あれで何ができるの?」と母が尋ねたとき、わたしは「情報を探したり、人とつながったりできるのよ」と答えた。あの時の母の目に浮かんだ小さな光り、あれは好奇心だったのだろうか。
わたしは言葉を失った。母は知っていたのだ。そして黙って兄に助けを求めていた。母が持つ繊細さと強さを、わたしはまだ完全には理解できていなかった。
「ありがとう」やっとの思いで絞り出した言葉。
夕暮れのキッチンに戻ると、母は再び車いすに座り、窓の外を眺めていた。西日に照らされた彼女の横顔は、透き通るような儚さを帯びていた。
「浩一から電話があったわ」母は振り返らずに言った。「週末、帰ってくるんですって」
その声には、かすかな希望の響きがあった。母子の会話の詳細は知らなくても、母は何かが変わろうとしていることを感じ取っていたのだろう。
「そうなの。帰ってきたら、みんなでこれからのことを話し合おうね」わたしは母の肩に手を置いた。「あのね、母さん。わたしが毎晩検索していたのは、私たちのためになる情報だったの。何か変えられることがあるんじゃないかって」
母はゆっくりと顔を上げた。その目には小さな光が宿っていた。
「わたしもね、由子。あなたが眠った後、あのパソコンの画面を見てたのよ。暗くて文字は読めないけど…何かが変わる可能性を感じていたの」
わたしは母の肩に手を置いた。ふと視線を落とすと、テーブルの上の請求書の山が、夕日に照らされて奇妙な影を作っていた。それはもはや単なる負債の象徴ではなく、わたしたちの生活の変容点を示す道標のようにも見えた。
明日、また明後日も、同じように請求書は届く。それは止まらない日常の流れの一部になっている。しかし、一人で背負い込む重荷ではないという気づきが、わたしの心に小さな光をもたらしていた。
窓の外では、夕焼けが徐々に色を変えていく。橙から紫へ、そして深い藍色へ。母が愛した色の移ろい。かつて彼女はこの色を和菓子に閉じ込めようと、幾度となく挑戦していた。
請求書という名の紙切れが、わたしたちの生活を縛る鎖のように思えていた日々。しかし今、その鎖の中にも、家族のつながりという別の糸が織り込まれていることに気づき始めていた。まだ解決には程遠いが、わたしはもう一人ではなかった。
母の肩に触れたまま、わたしたちは静かに夕暮れを見つめ続けた。言葉を交わさずとも、何かが確かに変わり始めていることを、二人とも感じていたのかもしれない。
第5節 行き場のない苛立ち
灰色の日々は、少しずつ心の皺に変わる。時計の針が夜中の二時を指し、わたしは台所の灯りだけを頼りに家計簿と向き合っていた。数字との対話は、かつてない疲労を身にまとわせる。眠れない夜が四日続き、目の奥には砂を詰め込まれたような鈍痛が宿っている。
窓の向こうは闇。その闇が、わたしの内側にも巣食っているような錯覚。
兄がまとめてくれた請求書の束は整然と並べられ、一見するとその問題は解決したように見える。しかし、数字は嘘をつかない。来月、再来月、そしてその先も続く出費の波は、干潮と満潮を繰り返しながらも、少しずつ岸を削っていく。
鉛筆の先が家計簿の上で躊躇う。次の一行を書き込むのが怖い。まるで、数字を記入する行為そのものが、未来を固定してしまうかのように。
◆
深夜の静けさの中、わたしはノートパソコンを開き、ブックマークしていた「マイケアプラン」のサイトに再びアクセスした。掲示板には似たような境遇の家族たちの書き込みが並んでいる。その中から、一つの言葉が目に留まった。
「AIが教えてくれたのは、制度ではなく母の望みを中心に考えること」
AIアシスタント。人工知能。それらの言葉が、わたしの中でかすかな希望として形を取り始めていた。もしかしたら、専門家でもないわたしたちでも、母に合ったプランを見つける手助けになるかもしれない。
「由子…まだ起きてるの?」
振り返ると、母が薄暗い廊下に佇んでいた。杖を頼りに立つ姿は、月明かりに照らされて影絵のように見える。退院して二ヶ月弱。デイサービスの疲労から車椅子で過ごす時間が多い中、夜中に自力で起き上がってきたことが、わたしの心に微かな希望と同時に焦りをもたらした。
「危ないから、呼んでくれればよかったのに」
言葉は穏やかでも、背後には疲労の棘が隠れている。自分でもそれを感じながら、止められない。
「大丈夫よ」母は静かに微笑んだ。「柚子の香りがしたから…お茶でも淹れようと思って」
その言葉に、わたしの内側で何かが震えた。疲労と睡眠不足が織りなす薄い膜が、一瞬で破けるような感覚。柚子の香り。母が感じたそれは、わたしが深夜に開けていた柚子茶のビンから漂っていたものだろう。市販の安いもの。母が手作りしていたものとは比べるべくもない。
「座って。わたしが入れるから」
立ち上がった瞬間、めまいが襲う。四日間で累計十五時間ほどしか眠れていないことが、身体の隅々にまで影を落としていた。
◆
静かな夜の台所。湯気の立つ柚子茶が、わたしたち親子の間に置かれている。その香りは市販品特有の人工的な甘さを含んでいた。それでも母は、目を閉じて深く吸い込んでいる。
「ねえ、母さん」
自分の声が思ったよりも冷たく響いて驚いた。
「どうして柚子にこだわるの?」
思いもよらない質問が口をついて出た。自分でも意図していない言葉。それは疲労から来る思考の乱れなのか、それとも、ずっと心の奥底に潜んでいた本音なのか。
母は柚子茶のカップを両手で包み込むように持ち、しばらく黙っていた。その沈黙は、七十八年の人生を振り返るための時間のようにも思えた。
「和菓子は、季節を映す鏡なの」
彼女はようやく口を開いた。その声には、長年の職人としての誇りが静かに息づいていた。
「冬の柚子は、雪の下で熟した太陽の欠片。その香りを閉じ込めるのが、わたしの仕事だったの」
シンプルな言葉。しかし、その背後には母の人生哲学が横たわっている。季節を閉じ込め、形にして、人に届ける—それが母の生きる意味だった。
「でも、今はそれができないでしょ?」
言葉が口から滑り出た瞬間、後悔が押し寄せる。自分でも信じられないほど残酷な言葉。けれどそれは、疲れ切った心が吐き出した正直な問いでもあった。
母の表情が、かすかに曇る。
「どうしてこんなに負担が大きいの?」
わたしの声が、思いがけず大きくなっていた。「このプランは誰のためなの?母さんは疲れて帰ってくるばかりだし、わたしは仕事を減らされて…このままじゃ、二人とも沈んでいくだけ」
言葉は止まらなかった。それは誰かに向けられた怒りではなく、状況に対する純粋な苛立ち。制度への、現実への、そして何より自分自身の無力さへの怒り。
「由子…」
母の声は、風に揺れる蝋燭の炎のように繊細だった。その声に、わたしは我に返った。目の前にいるのは、怒りの対象ではなく、同じ船に乗る伴侶。わたしの母であり、かつての職人であり、今は病の中にある弱々しい存在。
「ごめん…ごめんなさい」
急に涙があふれ出した。怒りを母にぶつけてしまった自責の念。理想と現実のギャップに苦しむ焦燥感。そして何より、この状況を変えられない悲しみ。
◆
「いいのよ」母は静かに言った。「由子が疲れているのは分かるわ」
その優しさがさらに胸を締め付けた。なぜ母は許してくれるのか。なぜわたしは、守るべき人を傷つけてしまうのか。
母の小さな手がわたしの手に重なった。かつては和菓子を作る器用な手。今はしわが刻まれ、骨ばって見えるその手に、まだ確かな温もりが宿っている。
「二人で考えましょう、別の道を」
母の言葉に、わたしは顔を上げた。彼女の瞳には、弱さと同時に決意が宿っていた。七十八年の人生を生きてきた知恵が、静かに光を放っている。
「別の道…」
その言葉を反芻しながら、わたしは窓の外を見た。夜空には月もなく、星もなく、ただ闇だけが広がっていた。しかし、その闇の向こうには、まだ見ぬ明け方が待っているはずだ。
深夜の静寂の中、ふとパソコンの画面が目に入った。まだ開いたままの「マイケアプラン」のサイト。そこに書かれた言葉が、今の母の言葉と不思議に呼応しているように思えた。「家族が主語になる介護」「本人の望みを中心に据えた生活」—それらの言葉が、わたしたちの探している「別の道」なのかもしれない。
柚子茶の香りが、かすかに部屋を満たしていた。人工的な香りであっても、それは確かに冬の記憶を運んでくる。母の言う「季節を映す鏡」の微かな残響。
「ねえ、母さん。わたし、ネットで、私たちと似たような状況の人たちが書いたものを読んでいるの」
わたしの言葉に、母の目に小さな光が宿った。
「彼らは『家族が主語になる介護』という言葉を使っていて…私たちのリズムで生きていけるケアプランを作れるかもしれないって」
「家族が主語…」母がゆっくりとその言葉を反芻した。「それ、いいわね」
しばらくの沈黙の後、わたしたちは言葉なく柚子茶を飲み干した。怒りが去った後には、ただ深い悲しさだけが残っていた。しかし同時に、何かを変えなければならないという静かな決意も生まれていた。
現状のプランは母を苦しめ、わたしを疲弊させる。しかし、その先にある選択肢はまだ霧の中にある。その霧を晴らす光を、わたしたちはまだ見つけられずにいた。
そして、明日からは新しい検索キーワードを加えよう。「AI 介護 サポート」「デジタルアシスタント ケア計画」。もしかしたら、そこに私たちの答えがあるかもしれない。
母の小さな寝息を聞きながら、わたしは冷え切った柚子茶のカップを見つめていた。かつて母が作っていた琥珀色の和菓子を思い出し、その色が再びわたしたちの生活に戻ってくる日を、静かに夢見ていた。それはただの夢想ではなく、実現への第一歩を踏み出すための、確かな願いだった。
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虹琥珀が透けるまで-3章この小説は、株式会社自動処理の技術デモとして公開しています。
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