七十八歳の和菓子職人である母が転倒し、大腿骨頸部骨折で入院した物語。主人公の「わたし」は突然、介護の世界へ引き込まれる。病院での診断、介護保険の申請、暫定ケアプランの作成と、次々と押し寄せる灰色の書類の波に戸惑いながらも、母の「また店先で和菓子を並べたい」という願いを守りたいという思いに支えられる。家族会議では、母の満足度「3点」、自身の「2点」という現実が突きつけられる。柚子の香りと琥珀糖の光を失った日常の中で、わたしは単なる介護者ではなく、母の喜びを守る伴走者として、灰色の日々に再び色を取り戻す道を模索し始める。
要件定義手法のデモとして、『虹琥珀が透けるまで』というAI生成小説を用い、「ノベル・ビジョニング・メソッド」の可能性を示すために作成しました。今回は介護業界において、マイケアプラン作成のためにAIを活用するというシナリオでの小説になります。
概要
「ノベル・ビジョニング・メソッド」は、要件定義の初期段階で小説を作成し、顧客やステークホルダーに読んでもらうことで利用イメージを共有・議論を喚起する新手法です。
本デモ小説『虹琥珀が透けるまで』は、介護開始から退院後の在宅ケアまでを、主人公とその家族の視点で詳細に描くことで、福祉・介護現場の課題や感情をリアルに体験させます。
主な特徴
- テーマベースの執筆
- 「在宅介護開始」という明確なテーマに沿い、フェーズごとの場面を章立てして構成。
- キャラクター創造
- 78歳の和菓子職人・富子さんと、その娘由子さんを核に、家族それぞれの葛藤や希望を丁寧に描写。
- 場面設定
- 救急搬送、書類手続き、退院後の車いす移動まで、視覚・聴覚・感情を刺激する臨場感ある描写。
- ストーリー構成
- 起承転結だけでなく、「満足度スコアリング」の導入など、要件定義のアクティビティを物語内に組み込み、読者自身が課題を共有できる設計。
技術的特徴
- 自然言語処理による文脈理解と展開
- キャラクター性格データベース活用
- 物語構造分析に基づくプロット生成アルゴリズム
GPTベースのモデルで、医療・介護用語や日常会話を区別しながらストーリーを一貫性高く生成。
登場人物ごとに「誇り高い職人」「新設DX部署の係長」「遠方の兄妹」などの性格プロファイルを保持し、発言や行動に反映。
「危機→手続き→暫定プラン→家族会議→スコアリング→新たな決意」という典型的なドラマチック・アークを、要件定義フローに対応させる仕組み。
デモの目的
- AI技術の創造的応用可能性の探求
- ステークホルダー共感の醸成
- 要件 elicitation の効率化
文章生成だけでなく、要件定義現場に「物語」を取り入れる新たなアプローチを提示。
小説を通して、ケアプラン利用者や家族の感情・行動を体感し、業務担当者の理解と議論を深める。
読後のQ&Aやワークショップを通じて、抽象的な要望を具体的な要件に落とし込むフレームワークを実証。
お問い合わせ
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お問い合わせ第1章 灰色の夜明け
第1節 夜の破片
夜中の電話は、いつも何かの崩壊の予兆だ。
静寂を引き裂くベルの音に、わたしは夢と現実の境界から引き剥がされた。デジタル時計が示す2時17分という数字が、暗闇の中で青白く浮かび上がっている。受話器を取る手が、自分のものとは思えないほど遠くに感じられた。
「もしもし」
自分の声が部屋の空気を震わせる。その向こうから、知らない男性の声が流れてきた。
「田口富子さんのご家族の方ですか? 警備会社のヤマモトと申します。緊急通報システムが作動しまして…」
言葉の断片が耳に届くたびに、わたしの中で何かが崩れていくような感覚があった。緊急通報。母。転倒。自宅で。救急車。
窓の外はまだ深い闇に覆われている。その闇に飲み込まれそうになりながら、わたしは母の家に向かった。車のヘッドライトだけが照らす道路は、まるで異世界への入り口のようだった。
◆
母の家の前には、すでに救急車が停まっていた。回転灯の赤い光が周囲の静謐を切り裂き、普段は穏やかな住宅街に非日常の空気を醸し出している。玄関は開け放たれ、見知らぬ靴が並んでいた。
「娘です」
リビングに駆け込むと、床に横たわる母の姿があった。顔は苦痛で歪み、あの誇り高い職人の面影はどこにもない。ただそこにあるのは、脆弱さを露わにした一人の老女の姿だった。
「大腿骨頸部骨折の疑いがあります。これから総合病院へ搬送します」
救急隊員の言葉は淡々としていて、その冷静さがかえって状況の重大さを際立たせる。わたしの視界が揺れた。想像していなかった現実が、一気に押し寄せてきたからだ。
「一緒に来られますか?」
その問いに頷くことしかできなかった。
母をストレッチャーに移す間、キッチンに目をやると、作りかけの何かが置き去りにされていた。柚子の皮が刻まれ、小さな鍋には水が張られている。季節を映す和菓子を作り続けてきた母の日常が、突然中断されたような光景だった。木製の柚子用包丁—母が若い頃からずっと使い続けてきた唯一無二の道具—も、半ば水に浸かったまま置き去りにされていた。
◆
救急車の中は、消毒液の匂いと緊迫した空気で満ちていた。母は目を細めて天井を見つめていた。
「由子…ごめんね」
その声は、かつてわたしが子供の頃に失敗を叱る時の強さはなく、どこか遠い場所から届くように細く震えていた。
「心配しないで。すぐに病院に着くから」
言葉を紡ぎながらも、わたしの思考は混沌としていた。この先の見えない道のり。仕事との両立。兄は単身赴任中で、日常的な助けは期待できない。そして何より、自分自身の生活の崩壊予感。
先週、兄からはようやく「週末なら帰省できるかも」とメールがあったばかりだった。それでも日常的な助けは望めそうにない。頼みの綱が増えたと思ったその矢先の出来事。わたしは深く息を吸い込んで、自分を落ち着かせようとした。
「由子…」母が再び呼びかけてきた。「柚子の皮、刻みかけだったの」
「今はそんなこと気にしなくていいよ」
「でも、わたしね…」痛みに顔を歪めながらも、母は言葉を続けた。「また店先で和菓子を並べたいの」
その一言で、胸の奥が熱くなった。七十八歳になっても、職人としての誇りと情熱を失わない母。その生きる喜びを奪ってはいけない。支えなければ。守らなければ。
でも同時に、冷たい不安が背筋を這い上がった。これからの日々、わたしの睡眠時間はどれほど削られるのだろう。仕事と介護の狭間で、自分自身が消耗していくのではないか。そんな恐怖が、暗い救急車の中で静かに膨らみ始めていた。
救急車のサイレンが夜の静けさを切り裂く。窓の外を流れていく街灯の明かりが、断片的に車内を照らしては消えていく。その光と影の境界線のように、わたしの心も決意と恐怖の間で揺れ動いていた。
不意に、母の手がわたしの手を探るように動いた。わたしはその手を取り、温もりを確かめた。まだ生きている。まだここにいる。その確かさにわたしは僅かに安堵した。
◆
「手術が必要です」
白衣の医師の言葉が、病院の白い壁に吸い込まれていく。
「高齢の方の大腿骨頸部骨折は注意が必要です。急性期治療の後、回復期リハビリ病棟も含めると、約一か月半から二か月の入院期間が必要になるでしょう」
二か月。その数字が現実味を帯びて迫ってくる。仕事の調整。母の家の管理。そして退院後の生活設計。次々と浮かび上がる課題に、頭が押しつぶされそうになる。
「詳しいことは明日、医療ソーシャルワーカーがご説明します。介護保険の申請なども考えておいた方がいいでしょう」
介護保険。その言葉だけでも、どこか異世界の話のように思えた。まだ昨日まで、母は自立した一人の職人だった。それが一瞬で「介護が必要な人」へと変わってしまう。境界線の脆さに、言葉にならない感情が胸の内側で渦巻いた。
診察を終えた医師が去った後、病室には静寂だけが残された。母はすでに鎮痛剤で微睡んでいる。その横顔を見つめながら、わたしは固く決意した。どれほど大変でも、母を守り抱く。母の「また店先で和菓子を並べたい」という願いを、なんとしても叶えさせたい。
廊下に出て、自動販売機で暖かい缶のお茶を買った。その温もりを両手で感じながら、わたしは窓際に立ち、夜空を見上げた。星一つない闇。これから始まる介護生活への不安が押し寄せる。仕事との両立は可能なのか。自分の時間は確保できるのか。そして何より、自分の睡眠時間すら見通せなくなる恐怖。すべてを両立させるという不可能に思える課題に、静かな絶望感が忍び寄った。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。夫からのメッセージだろうか。画面を見ると、何かのニュースサイトからの通知だった。「AI技術で介護負担を軽減—新しいケアプラン作成ツールが話題に」。わたしはため息をつき、スマートフォンをポケットに戻した。今はそんな情報に振り回される余裕はない。
窓の外の空が、少しずつ明るさを増し始めていた。新たな一日の始まりを告げる朝の訪れ。しかし、わたしの前に広がるのは、まだ光の見えない灰色の夜明けだった。
第2節 書類の重さ
病院の廊下は消毒液の匂いと静寂に満ちていた。手術から二日後、母はようやく意識がはっきりとし、会話ができるようになった。わたしは連日の寝不足で目の奥が痛んでいたが、それでも母の回復を見て少しだけ安堵していた。
「田口さんのご家族の方ですね。少しお時間よろしいでしょうか」
振り返ると、白いカーディガンを着た四十代の女性が立っていた。「医療ソーシャルワーカーの野村と申します」と名乗る彼女の笑顔には、どこか練習を重ねたような滑らかさがあった。
「今後のことについて、お話をさせていただきたいのですが」
病院の一室に案内されるまで、わたしは「今後のこと」が何を意味するのか、本当には理解していなかった。それは単に母の退院後の生活ではなく、わたしたち家族の日常の再構築と、知らなかった制度との対峙を意味していたのだ。
◆
会議室のテーブルの上に、野村さんは厚手の封筒から次々と書類を取り出していった。一枚、また一枚と重なっていく紙の山。申請書、説明書、パンフレット、同意書。それらはテーブルの上で不思議な地層を形成していくようだった。
「まず要介護認定の申請が必要です。市役所の窓口に直接行っていただくか、地域包括支援センター経由で申請することもできます」
野村さんの言葉は淡々としていて、まるでこれが人生で何度も繰り返される日常の風景であるかのようだった。彼女にとってはそうなのだろう。しかし、わたしにとっては見たこともない景色だった。
「認定までは約一カ月かかります。その間、市町村から暫定的な給付を受けながら、暫定プランで進めることができますが…」
一カ月。その数字だけが頭に残った。母が急性期病棟から回復期リハビリ病棟へ移るのは一週間後。退院するのは早くても六週間後。それまでに何をしなければならないのか。頭の中で考えが四散していく。「誰か詳しい人はいないのか」という叫びが、内側で空回りし始めた。
「こちらが介護保険の利用者負担額の説明です。一割負担が基本ですが、所得によっては二割、三割になる場合もあります。そしてこれが…」
次々と説明される制度と書類の間で、わたしの思考は水面下で溺れかけていた。メモを取ろうとしたペンが手から滑り落ち、床に転がる。それを拾い上げながら、自分の手が小さく震えていることに気がついた。
「そして、こちらが訪問介護サービスの説明書です。身体介護と生活援助の区分があり…」
言葉の海に溺れそうになりながら、わたしは必死で息継ぎを探した。一つだけでも、何か質問をしなければ。少なくとも理解しているふりをしなければ。
「あの…訪問介護の時間は、どのように決まるのでしょうか」
やっと口から出た質問に、野村さんは丁寧に答えてくれた。それは単なる質問ではなく、この溺れそうな状況で手を伸ばした、わたしなりの抵抗だった。少なくとも黙って溺れていくよりは、抗おうとしているのだと自分に言い聞かせた。
◆
「何か質問はありますか?」
一時間近くの説明の後、野村さんはそう尋ねた。窓から差し込む午後の光が、積み上げられた書類の上に灰色の影を落としている。質問?ーーわたしの中には疑問符だけが無数に浮かんでいた。
「すみません、これ全部…わたしがやらなければいけないんですか?」
声を出した瞬間、その問いがいかに幼く聞こえるか気づいた。しかし野村さんは表情を変えずに応じた。
「ご心配は当然です。ですが、地域包括支援センターやケアマネジャーがサポートしてくれますよ。まずは申請書だけ記入して、窓口に提出するところから始めてみましょう」
彼女は山から一枚の紙を取り出し、ペンでチェックを入れた。「ここだけ記入して、明日にでも提出してください」
それだけでよいと言われても、その一枚の紙の重さは変わらなかった。母の年金情報、資産状況、身体状態の詳細。知っているようで知らない情報の数々。
「あの、兄がいるんですが…彼と相談してから」
「もちろんです。ですが、申請が遅れると、サービス開始も遅れてしまいます」
その言葉に隠された焦りを感じ取り、わたしは沈黙した。兄は今週末、帰省の予定だとメールをくれたばかりだ。それでも、結局は自分がやるしかないのだという現実が、静かに心に沈殿していった。
◆
病室に戻る廊下で、わたしは手にした書類の束を見つめていた。これが母の今後の生活を左右するパズルのピースなのだ。しかし、そのピースをどう組み合わせれば良いのか、完成図すら見えない。
「誰か詳しい人はいないのか」という内なる叫びは、病院の壁に吸収されて消えていった。そこにあるのは、ただ自分自身の不安と決意だけ。
母の病室のドアに手をかけながら、ふとわたしは思った。義理の父の看取りのときも、こんな複雑な手続きがあったのだろうか。あのときは夫が全て引き受けてくれて、わたしは傍らで支えるだけだった。今度は自分が前線に立つ番なのだ。
病室のナイトテーブルには、父の形見の懐中時計が置かれていた。母が入院の際に持ってきたものだろう。針は2時17分で止まっていた—母が倒れた時刻。父の死後、母はその時計をずっと大切にしてきた。今は止まっているが、いつかまた動き出す日が来るのだろうか。
部屋に入ると、母はうとうとと眠っていた。手術後の痛みに眉間に皺を寄せながらも、それでも安らかに見える母の横顔。わたしは椅子に座り、膝の上の書類を眺めた。一枚一枚が母の未来につながる道。その道をどう切り開くのか、まだ見当もつかなかったが、ただ一つだけ確かなことがあった。
母の「またお菓子を作りたい」という願いを守るため、この灰色の書類の山と向き合わなければならないこと。そして、その作業を担うのは、他でもない自分自身だということ。
窓の外では、冬の雲が静かに流れていた。膝の上の紙束に目を戻すと、そこに記された「要介護認定申請書」の文字が、これから始まる長い旅の出発点のように思えた。わたしは深く息を吸い込み、ペンを手に取った。
第3節 暫定プランへの不安
窓辺に寄り添う午後の光は、時間の流れを視覚化するように病室の壁をゆっくりと移動していった。母の入院から一週間が過ぎ、「退院調整」という新たな段階に入ろうとしていた。病院の会議室に座りながら、わたしはノートの端に無意識に小さな渦を描き続けていた。その渦は、わたしの内側で渦巻く不安の形を映し出しているようだった。
「田口さんの場合、要介護2相当と考えて暫定的なケアプランを立てさせていただきました」
テーブルを囲んでいたのは、病棟看護師、地域包括支援センターの職員、そして初対面の居宅介護支援専門員——略してケアマネジャーという人たち。彼らは互いに顔見知りのようで、専門用語を交えながら母の退院後の生活について手際よく話を進めていた。
「要介護2相当」——その数字の意味するところが、わたしにはぼんやりとしか伝わってこなかった。二という数字の背後には、どんな基準があるのだろう。母には何ができて、何ができないのか。その評価は誰がどのように決めたのか。そもそも母自身は、自分が「要介護2相当」であることをどう感じているのだろうか。
◆
「このプランは、正式な要介護認定が下りるまでの暫定的なものです」
ケアマネジャーの井上さんは、整然と資料を広げながら説明を続けた。週5回のデイサービス(日中に施設で過ごす通所型サービス)、週1回の訪問入浴(自宅での入浴介助)、週3回の訪問介護(ホームヘルパーによる家事援助)。すべてが数字とスケジュールに置き換えられていく。母の生活が、区分けされたサービスの組み合わせになっていく様子を見ながら、わたしは奇妙な疎外感を覚えた。
「訪問入浴は身体に負担がかからず、特に股関節の手術後には適しています」 「デイサービスでは機能訓練も受けられますので、リハビリの継続にもなります」 「訪問介護では、着替えや食事の準備など日常生活の基本動作をサポートします」
どれも合理的で、理にかなっている。だが、その言葉の一つ一つを理解しようとすればするほど、わたしの中には奇妙な違和感が膨らんでいった。これは本当に、わたしの知っている母のための計画なのだろうか。七十八年の人生を生きてきた、あの頑固で誇り高い和菓子職人のための計画なのだろうか。
「ご質問はありますか?」
井上さんの問いかけに、わたしは水を一口飲んでから言葉を選んだ。前回の説明会での失敗を繰り返さないよう、今度は一つだけでも質問しようと決めていた。
「母は…このプランについて、どう思っているんですか?」
一瞬、会議室に小さな沈黙が落ちた。
「まだ詳しくは説明していません。退院が近づいてから、改めてご本人とも相談します」
当然の返答だったのかもしれない。しかし、その言葉に含まれる前提——母は計画の作成者ではなく、説明を受ける側だという前提——にわたしの胸の奥が微かに痛んだ。
◆
帰り道、病院の廊下を歩きながら、わたしは井上さんから渡された書類の束を見つめていた。表紙には「暫定ケアプラン」と印刷され、その下には母の名前。そのプランの内容を理解しようとすればするほど、母の本当の姿が見えなくなっていくような不思議な感覚に襲われた。
病室に戻ると、母はベッドの上で編み物をしていた。手術後のリハビリの一環として、指先を動かすことを勧められたのだという。細い指が毛糸の間を行き来する様子には、長年の職人としての緻密さが残っていた。
「おかえり」母の声には、かすかな明るさがあった。「今日は何の話だったの?」
わたしは椅子に腰掛け、できるだけ簡潔に会議の内容を伝えた。暫定ケアプラン、要介護認定の申請、デイサービスの利用。専門用語を噛み砕きながら説明するほどに、それらの言葉が母の日常からどれほど遠いものであるかを実感せずにはいられなかった。
「要介護2相当って…わたし、そんなに弱っているのかしら」
母の問いに、わたしは適切な答えを持ち合わせていなかった。その数字の背景にある評価基準や点数システムを、わたしも完全には理解していなかったからだ。ただ「専門家がそう判断したから」と言うしかなかった。
「でも、お風呂は自分で入りたいわ」 「週に五日もデイサービス?そんなに外出る元気もないし…」 「それより、柚子の皮を刻む時間はあるのかしら」
母の素朴な疑問に、わたしは答えに窮した。プランの中には、母が日常で大切にしてきた細やかな時間の流れが組み込まれていないことに気づいたからだ。和菓子づくりの準備、季節の素材との対話、手先を動かす喜び——それらはすべて「要介護2相当」という数字の中に埋もれてしまっていた。
◆
夕暮れが病室の窓から差し込み、母の横顔を柔らかく照らしていた。編み物を置いた母の手は、少し疲れたように膝の上で休んでいる。わたしは「暫定ケアプラン」の冊子を開き、再び目を通した。
表の中に区切られた時間割、サービスコード、単位数。それらの数字や記号が意味するものを理解しようと試みるほどに、説明されても理解しきれないもどかしさが増していった。この紙に書かれた計画が、本当に母の望む生活を支えることができるのだろうか。「要介護2相当」という評価は、母の七十八年の人生や、これからの願いをどれほど映し出しているのだろうか。
わたしの視線に気づいたのか、母が静かに問いかけてきた。
「大丈夫?難しそうね、その書類」
「うん…少し複雑で。でも、これが母さんの生活を支える仕組みになるんだって」
「そう…」母はしばらく窓の外を見つめていた。「でも、わたしはただ、柚子の香りを朝に感じたいだけなのよ」
その言葉に、わたしは胸の奥で何かが揺れ動くのを感じた。制度やサービスという枠組みと、母の小さな願いとの間にある埋めがたい溝。説明を受けても理解しきれない専門用語の森の中で、わたしはただ母の言葉だけを確かな道標として感じていた。
明日、退院日が正式に決まる。そして、この暫定ケアプランに基づいて母の新しい生活が始まる。それが母にとって本当に必要なサポートになるのか、わたしにはまだ確信が持てなかった。ただ一つだけ確かなことは、この先に広がる未知の道のりを、母と共に歩むのは他でもない自分自身だということ。
スマートフォンが微かに震え、画面を見ると先日と同じAI関連のニュースサイトからの通知だった。「マイケアプラン:AIを活用した自分らしい介護計画」。前よりも具体的なサービス名が目に入り、不意に興味が湧いた。わたしは一瞬だけ立ち止まり、そのページをブックマークに追加した。今はまだ情報収集の余裕はないが、いずれ検討する価値はあるかもしれない。
病室の窓から見える夕焼けの色が、少しずつ消えていった。やがて訪れる夜のように、わたしたちの前にも見えない時間が広がっている。暫定ケアプランという名の灰色の地図を手に、わたしたちはこれからその暗がりに足を踏み入れようとしていた。
第4節 家に戻る車いす
退院の日は、思いのほか静かに訪れた。三週間の入院を経て、母は車いすに座り、看護師に見送られながら病院を後にした。冬の日差しが弱々しく差し込む午後、わたしたちの日常が再び始まろうとしていた—ただし、以前とはまったく異なる形で。
車いすを折りたたみ、タクシーのトランクに収めながら、この金属の枠組みこそが母の新しい足となることを実感した。軽いようで重い。シンプルなようで複雑。折りたたまれた車いすは、これからの生活の両義性を象徴しているようだった。
「気をつけて」と看護師が声をかけた。その言葉には幾重もの意味が含まれていたように思えた。気をつけて移動して。気をつけて介護して。気をつけて自分自身も壊れないように。
◆
タクシーの窓から眺める景色は、病院に通い続けた三週間の間にも、確かに変化していた。街路樹の枝はさらに葉を落とし、冬の深まりを告げている。わたしの人生も、同じように何かを落とし、何かを身に着けようとしているのかもしれない。
「久しぶりの外の空気ね」
母の声には、小さな喜びと、それに拮抗するような疲労感が混在していた。病室から解放された安堵と、これから始まる未知の生活への不安。母の複雑な感情が、その短い一言に凝縮されているようだった。
「もうすぐ家だよ」
わたしは母の手を握った。かつては菓子を作る際の熱で少し荒れていた手が、今はなめらかで、どこか力のない手に変わっていた。三週間の入院生活が、母から何かを奪い去ったようで胸が痛んだ。
◆
玄関のドアを開け、久しぶりに自宅に戻った瞬間、空気がわたしたちを包み込んだ。誰も住んでいない家特有の、わずかに冷えた空気。それでも確かに母の香りを留めた、懐かしい場所。この空間の中で、これから新しい生活のリズムを刻んでいくのだと思うと、心臓が少し速く鼓動した。
車いすを広げ、母を座らせる。その姿が家の中にあることの違和感と、やはりここが母の居場所なのだという安堵感が、奇妙に混ざり合った。車いすの車輪がフローリングの上でわずかに音を立てながら、母をリビングへと導いた。
そこで、わたしの視線は冷蔵庫に貼られたA3サイズの行程表に吸い寄せられた。ケアマネジャーの井上さんが作成した、今後の生活予定表。白いボードに印刷された枠の中に、みっしりと灰色の活字が並んでいる。
「デイサービス」「訪問入浴」「訪問介護」—それらの文字が、母の一日をびっしりと埋め尽くしていた。その行程表には不思議な現実感のなさがあった。まるで別の誰かの人生のスケジュール表、あるいは母の影ではあっても母自身ではない何かのための予定表のように思えた。
「これが…わたしの新しい生活なのね」
母の言葉には、諦めに似た静かな響きがあった。車いすに座った小さな母の姿と、その前に広がる灰色の予定表の対比が、わたしの中に言いようのない喪失感を呼び起こした。これは本当に母の望む生活なのだろうか。この灰色の枠組みの中に、母の琥珀糖への情熱や、柚子の香りへの愛着は組み込まれているのだろうか。
わたしは母の肩に手を置いた。温かいセーターの下に感じる骨の輪郭が、三週間でさらに鋭くなったように思えた。母は確かに弱くなっていた。しかし、それでも母の目には、和菓子職人として生きてきた七十八年の記憶と誇りが宿っている。その光をこの灰色の予定表が消してしまうのではないかという恐れが、静かにわたしの中で広がっていった。
◆
夕方、ケアマネジャーの井上さんが訪問してきた。玄関先で靴を脱ぎながら、彼女は明るく母に声をかけた。
「お帰りなさい、田口さん。お家に戻ってきて、いかがですか?」
母は微笑みながら応えたが、その笑顔の下に隠された戸惑いを、わたしは見逃さなかった。井上さんはリビングで資料を広げ、改めて暫定ケアプランの説明を始めた。
「明日から早速デイサービスが始まります。朝八時に送迎車がお迎えに来ますので…」
説明を聞きながら、わたしは再び冷蔵庫の行程表に目を向けた。灰色の活字で埋め尽くされたその表が、わたしたち家族の未来を決定づけているように思えた。わたしの仕事のスケジュール、母の療養生活、そしてその狭間で揺れ動く日々の小さな希望や不安。すべてがこの紙一枚に凝縮されている。
地図を渡されたような心細さ。そう、この行程表は確かに地図のようだった。しかし、それはわたしたちの行きたい場所を示す地図ではなく、誰かが「行くべきだ」と判断した場所への道筋を示すものだった。その違和感に、わたしは言葉にならない不安を覚えた。
母の表情を窺うと、彼女もまた同じような違和感を抱えているようだった。時折頷きながらも、その目は少し遠くを見ている。おそらく母の心は、この灰色の予定表の向こう側にある、柚子の香りと琥珀糖の光を想い描いているのだろう。
◆
井上さんが帰った後、わたしたち母娘は灯りをともしたリビングで、静かに向かい合った。冷蔵庫の行程表は、蛍光灯に照らされて一層冷たく光っている。
「由子」母が静かに呼びかけた。「このスケジュール通りに生きれるかしら、わたし」
その問いには、明確な答えがなかった。ただわたしには、母が望んでいる生活とこの表との間には、埋めがたい乖離があるのではないかという予感があった。毎朝の柚子の香り、手先を使う細やかな作業の喜び、季節を映す和菓子を作る静かな情熱—それらは「要介護2」という数字の中に収まりきるものなのだろうか。
「一緒に考えていこう」わたしは母の手を握りながら言った。「これはあくまで暫定的なものだから、少しずつ調整していけるはずだよ」
わたしの言葉が、どれほど母の心に届いたかは分からない。ただ、母の手が少しだけわたしの手を強く握り返したことだけは確かだった。その小さな反応の中に、わたしたちがこれから共に歩むという約束が静かに宿っているように思えた。
夜、母が眠った後、わたしは冷蔵庫の行程表を再び見つめていた。このプランが母の本当の姿を映し出しているとは思えない。でも、今はまだ「これしかない」と思い込んでいる。この先には、もっと母らしい色で彩られた日々があるのではないか。そんな可能性が紡ぎ出せないだろうか。
スマートフォンを取り出し、先ほどブックマークしたAIケアプランのページを開いた。「家族が主語になる介護」という言葉が目に留まった。何かヒントになるかもしれない。わたしはページの内容をざっと眺め、後で詳しく読むことにした。
ようやくベッドに横になりながら、わたしは思った。窓の外はすでに夜の闇が深まっていたが、どこかにわたしたちを照らす光があるはずだ。明日から始まる新しい生活に向けて、わたしたちは静かに準備を整えていく。灰色の夜明けを迎える準備を。
第5節 スコアの始まり
夕日が沈み、窓ガラスが暗紫色に染まる時間。母が退院して三日目の夕餉は、まだぎこちない沈黙に包まれていた。テーブルの上に並ぶ料理—レトルトの煮物と配食サービスの弁当—は、かつて母が作っていた季節の料理とは別世界のものだった。柚子の香りも、椀から立ち上る湯気の優しさも、そこにはない。
兄の浩一が単身赴任先から帰省し、姪の亜希と息子の春も集まった家族会議は、母の病室ではなく、初めて我が家のダイニングテーブルを囲んで行われた。母は車椅子に座り、少し疲れた表情でわたしたちを見つめていた。その瞳には、自分がこうして家族を集めさせてしまった申し訳なさと、それでも故郷に戻ってきた安堵が交錯していた。
「それでは、今後の生活について具体的に話し合いましょう」
井上さんの声は、プロフェッショナルな滑らかさを保ちながらも、どこか人間味のある温かさを湛えていた。彼女はバインダーからA4の用紙を取り出し、テーブルの中央に置いた。
「まず、皆さんの現状認識を共有するために、ひとつ提案があります。生活の状態を可視化する意味でも、満足度を10点満点で採点してみませんか?」
数値化するという発想は、不思議と目に見えない霧を晴らすような効果があった。誰もが感じている混沌とした感情や状況を、ひとつの数字に集約する。その単純さに、わたしは一瞬の安堵を覚えた。
「では、富子さんからお願いできますか?」
母は少し考え込むように目を伏せた。七十八年の人生を生きてきた母の満足度が、たった一つの数字に集約されようとしている。その不条理さと、同時に避けられない現実に、わたしは息を詰めた。
「そうね…」母はゆっくりと口を開いた。「今のわたしは…3点かしら」
その数字を告げる母の声には、諦めに似た静けさがあった。七十八年の人生で初めて他者の手を借りなければ生きられなくなった現実。和菓子を作る手の自由を失った喪失感。それらがすべて「3」という数字に凝縮されていた。
「ありがとうございます」井上さんは丁寧に用紙に記入した。「では由子さん、いかがですか?」
わたしは窓の外に目をやった。夜の闇が深まりつつある空を見つめながら、自分の内側を探った。仕事と介護の両立への不安。睡眠時間の確保できない恐怖。母への愛情と、それでも感じてしまう負担感。それらすべてを天秤にかけて、ひとつの数字を選ばなければならない。
「わたしは…」言葉が喉につかえた。「2です」
部屋の空気が少し固くなったように感じた。2という数字があまりにも低く、あまりにも正直すぎたのかもしれない。だが、偽りの数字を告げる余裕はなかった。
「浩一さんは?」
「4かな」兄は少し考えてから答えた。「離れて暮らしているから直接的なケアはできないけど、週末の帰省で少しでも役に立ちたいと思っている。ただ、それで十分なのかという不安はある」
「亜希さんと春君は?」
「5です」亜希が明るく答えた。「おばあちゃんの琥珀糖の作り方、まだ教えてもらいたいことがたくさんあるから」
「僕も5」春はスマホから顔を上げて言った。「でも何をすればいいのかわからない」
井上さんはそれぞれの数字を丁寧に記入していった。そして最後に、家族平均として「3.8」という数字を書き記した。
数値にして突きつけられた家族の疲弊や不安。それは紙の上の灰色のインクのように、わたしたちの現実を染め上げていた。母の3、わたしの2、兄の4、亜希と春の5。それぞれの数字の隙間には、言葉にならない感情の海が広がっている。
「この数字が現状です」井上さんは穏やかに言った。「これからの目標は、この数字を少しずつ上げていくこと。そのために必要なサポートを考えていきましょう」
わたしは母の横顔を見た。彼女は窓の外を見つめ、どこか遠くを思い浮かべているようだった。おそらくそれは、和菓子を作っていた頃の自分自身の姿なのだろう。季節の色と香りを閉じ込めた琥珀糖が、陽の光を受けて輝いていた日々。そんな日常が「3」から「10」に戻ることはあるのだろうか。
「由子ちゃん、そんなに無理しないで」
兄の言葉に、わたしは我に返った。
「わたしなりにサポートするから。休みの日は帰ってくるし、経済面でも協力するから」
「わたしも保育園の帰りに寄れる日があるわ」亜希も続いた。「おばあちゃんとお菓子の話をするだけでも、きっと元気が出るはず」
「僕、動画編集のバイト始めたから、少しお金入ったら家に入れるよ」春もスマホを置いて言った。
家族それぞれの言葉に、わたしの胸の内が少しだけ明るくなるのを感じた。しかし同時に、この支援の言葉の裏に隠された現実—日々の介護の主担当はわたしになるという現実—もまた、鮮明に浮かび上がってきた。
母の「3」、わたしの「2」—これらの数字をどう埋め合わせていけばいいのか。途方に暮れる気持ちと、それでも前に進まなければならないという責任感が、わたしの内側で静かに渦を巻いていた。
「これからは毎月、このスコアをつけてみましょう」井上さんは言った。「変化を見ることで、プランの効果や必要な調整が見えてきます」
わたしは窓の外の空を見上げた。雲間から小さな星が一つ、ぽつりと瞬いている。数字に置き換えられた現在地から、わたしたち家族はどこへ向かうのだろう。灰色に染まった生活から、どのように色を取り戻していけばいいのだろう。
「母さんの3を10に近づけるために、わたしにできることがあるはず」
思わず口に出した言葉だったが、その瞬間、わたしの心に小さな灯がともったような気がした。単なる介護者ではなく、母の喜びを守る伴走者になりたい—そんな思いが、静かに芽生え始めていた。
テーブルの上の紙に記された数字たちは、これから始まる旅路の出発点を示していた。わたしたちはまだ、その先に待つ虹の色を想像することもできずにいた。ただ明日も、灰色の中で目を覚ますことしか見えていなかった。
それでも、母の横顔に残る和菓子職人としての誇りの影を見ていると、この灰色の中にも、いつか色が宿る可能性を信じずにはいられなかった。数字で表された今日の現実を受け入れながらも、わたしの心の片隅では、まだ見ぬ虹色への細い道筋を探し始めていた。
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虹琥珀が透けるまで-2章この小説は、株式会社自動処理の技術デモとして公開しています。
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