※本記事は、World Economic Forum Annual Meeting 2026(ダボス会議2026)のセッション「Scaling AI: Now Comes the Hard Part」の内容を基に作成されています。本セッションはMIT Technology Reviewとの共同制作で、動画はWorld Economic Forumの公式YouTubeチャンネル(http://www.weforum.org/ )にて公開されています。
登壇者は、Royal PhilipsのPresident兼CEOのRoy Jakobs氏、VisaのCEOのRyan McInerney氏、Saudi AramcoのPresident兼CEOのAmin Nasser氏、AccentureのChair兼CEOのJulie Sweet氏、およびモデレーターを務めたMat Honan氏です。
本記事ではセッションの内容を要約・構成しております。原発言の見解を正確に反映するよう努めていますが、要約や解釈による誤りが生じる可能性があります。正確な情報や文脈については、オリジナル動画(https://www.youtube.com/watch?v=BwhZbRxSles )をご視聴いただくことをお勧めいたします。
1. オープニング:AIスケーリングの現状と課題
1.1 パネル概要・登壇者紹介・聴衆調査(パイロット導入率・スケール率・予期せぬ課題)
モデレーター: 本日はAIのスケーリングをテーマとしたパネル「Scaling AI: Now Comes the Hard Part」にようこそいらしゃいました。このセッションはWorld Economic Forumが進める「AIによる産業変革」イニシアティブの一環です。2025年だけで1兆5,000億ドルという巨額の投資が注ぎ込まれたことが示すとおり、AIの経済的インパクトを最大化しようとする競争はすでに始まっています。しかし、パイロットから本格展開へと移行することは、依然として多くの企業にとって大きな壁となっています。新たな戦略と、新たな組織能力が求められているのです。本日のパネリストをご紹介します。Royal PhilipsのPresident兼CEOのRoy Jakobs、VisaのCEOのRyan McInerney、Saudi AramcoのPresident兼CEOのAmin Nasser、そしてAccentureのChair兼CEOのJulie Sweetです。
登壇者への質問に入る前に、まず会場の皆さんにいくつか確認したいことがあります。組織の中でAIのパイロットプログラムを立ち上げたことがある方は手を挙げてください。——ほぼ全員の手が挙がりました。それでは、そのパイロットを実際にスケールアップできた方は?——手の数は明らかに減りましたが、想定よりは多い印象です。最後に、スケールアップの過程で予期しない課題にぶつかった方は?——スケールアップに成功した方とほぼ同数の手が挙がりました。
この三つの質問への回答が、今日の議論の出発点を鮮明に示しています。AIのパイロット導入は広く普及しているものの、エンタープライズ全体への展開は依然として例外的であり、たとえ成功した企業であっても、その道のりは決して平坦ではなかったということです。AIの世界では、1年が通常の10年に相当するとも言われます。それほど急速に変化するこの領域で、2025年から2026年にかけて何が変わったのか——本日はそこを深く掘り下げていきたいと思います。
2. 医療分野のAI活用と業務変革(Roy Jakobs/Royal Philips)
2.1 臨床アウトカム改善と業務効率化:診断支援・アンビエントリスニング・管理業務削減の実証知見
Roy Jakobs: 医療分野におけるAIの普及は非常に速いペースで進んでいます。その背景にある最大の要因は、深刻な人手不足です。患者やケアを必要とする人々を支えるための人材が、世界的に絶対的に足りていない。だからこそAIの活用が急速に広まっており、その効果も臨床の現場で確実に現れ始めています。
活用の方向性は大きく二つあります。一つは臨床アウトカムの改善です。画像診断における精度向上、モニタリングデータを用いた患者状態の把握、臨床介入における意思決定支援——これらを通じて、ミスを防ぎながら医師の判断を迅速かつ正確にサポートすることができます。もう一つは業務効率化です。医療現場には膨大な管理業務が伴いますが、ここにAIを導入することで、看護師や技術者、医師が本来やりたくない作業から解放されつつあります。
具体的な事例として、アンビエントリスニング(環境音声収録)が挙げられます。従来、臨床医は患者との面談中に手動でノートを取る必要がありましたが、AIが会話を自動で記録・文字起こしし、医師はその内容を確認してサインオフするだけで済むようになりました。看護師が1時間あたり15〜20分費やしていた管理業務を10〜15分削減できれば、その時間をそのまま患者ケアに充てることができます。現状、看護師が患者と直接向き合える時間はわずか3〜5分程度に過ぎません。AIとエージェントによってその時間を取り戻すことは、単なる生産性向上ではなく、ケアの質そのものを回復させることを意味します。
モデレーター: その看護師の例は非常に具体的で印象的です。生産性の話にとどまらず、患者にとってもよいことだということですね。
Roy Jakobs: まさにそうです。医療において本質的な価値は、患者との質の高い時間をいかに生み出せるかにあります。診断結果を告げるだけでなく、「それはどういう意味か」「どのように治療を進めるのか」という対話の時間——そこにこそ人間の臨床家がいる意義があります。AIはその時間を作り出すための手段です。生産性の向上と臨床アウトカムの改善、そしてケアの質の回復という三つの価値が同時に実現できる点が、医療AIの急速な普及を後押ししています。
2.2 「ケアに時間を戻す」という価値観の転換と、アドプション設計の重要性
Julie Sweet: Royが指摘したことは非常に重要な視点です。私たちはこれまでAIの議論をあまりにも生産性の観点に偏らせてきました。関連する製薬業界でも同様の変化が起きています。あるファーマ企業との取り組みでは、医師向けの薬剤説明コンテンツを各国の規制に準拠させるプロセスを標準化しました。従来は数ヶ月かかっていた作業が大幅に短縮され、市場投入のスピードが上がりました。しかし最も興味深い変化は別のところにありました。以前は法務承認を取得すること自体がゴールであり、一度承認されたコンテンツを更新しようとする動機はほとんどありませんでした。ところがAIの導入後、担当者が「このコンテンツは誰に届いているか」「本当に役に立っているか」という問いに時間を使えるようになったのです。コンテンツを必要な患者に届けることへの注力が、結果として売上にも、そして患者の健康にも貢献しています。
これはRoyが示した患者アウトカムの話と本質的に同じです。私たちが直近の調査で把握した数字があります。CEOおよびCスイートの78%が、AIがもたらす価値は生産性よりも成長に対する貢献の方が大きいと回答しています。この認識の変化こそが、過去12ヶ月でスケールが始まった企業群から得られた最も重要な学びです。
Roy Jakobs: アドプション設計の観点からも付け加えさせてください。テクノロジーをいかに優れたものにしても、それが現場の業務に自然に溶け込まなければ意味がありません。AIを開発する最初の瞬間から、それが実際にどのように現場に着地するかを考え抜くことが不可欠です。これは技術の問題ではなく、現場の実践を深く理解することの問題です。私たちは医療AIの分野でこの学びを積み重ねており、それが急速な普及の土台になっていると考えています。
3. エージェンティック・コマースの台頭と信頼設計(Ryan McInerney/Visa)
3.1 2026年のネイティブ購買実現とAIレディカード・トラステッドエージェントプロトコルの展開
Ryan McInerney: 昨年までのユーザー行動を振り返ると、多くの消費者がAIプラットフォームを商品の発見・検索に使いながらも、実際の購買は元の販売者サイトに移動して行っていました。しかし2026年、この構造が変わります。ユーザーはChatGPTでもGeminiでもClaudeでもCopilotでも、使い慣れたAIプラットフォームの上で購買まで完結できるようになる。「買う」ボタンがそこに現れるのです。
そしてその先、2026年を抜け出した段階で訪れるのが、真の意味でのエージェンティック・コマースです。私自身がAIプラットフォーム上で購買ボタンを押すのではなく、私の代理として動くエージェントが、商品を探し、見つけ、購入まで完了する世界です。しかしこれを機能させるためには、信頼の構造を丁寧に設計しなければなりません。消費者は自分のエージェントが意図しない買い物をしないか、予算を超えないかを信頼できる必要があります。販売者は、自社のデジタルドアに現れたエージェントが本当にユーザーから権限を与えられた存在であることを確認できなければなりません。銀行は、決済認可のリクエストが本当にユーザーの意思に基づくものかを判断できる必要があります。
この信頼の構造を実装するために、Visaは三つの仕組みを世界規模で展開しています。一つ目は「AIレディVisaカード」です。ユーザーがエージェントに対してパラメータを設定できる仕組みで、使用可能な金額の上限、1回あたりの取引規模、購買可能な店舗の種類、オープントゥバイの有効期間などを細かく指定できます。二つ目は「トラステッドエージェントプロトコル」です。販売者の側から見て、訪問してきたエージェントが正規のVisaカードを持ち、ユーザーから正式に権限を付与されていることを確認できるデータペイロードを伴った仕組みです。三つ目はパーソナライゼーション機能です。Visaカード保有者が希望する場合に限り、自身の購買履歴をエージェントに参照させることで、レコメンデーションや購買体験をより個人に即したものにできます。
モデレーター: エージェントが購買履歴を参照するとなると、たとえば毎週の食料品の定期購入や、季節に合わせたコート選びまで対応できるイメージでしょうか。
Ryan McInerney: まさにそうです。Visaカードの購買履歴には、ユーザーがいつ旅行の予約をするか、どんなレストランをよく使うか、どのカテゴリに支出が集中するかといった豊富なコンテキストが蓄積されています。しかし歴史的に、このデータをユーザー自身が活用できるツールや仕組みが存在しませんでした。銀行経由でエージェントにこの購買履歴を活用させる許可を与えることで、通常のユーザープロファイルをはるかに超えたコンテキストをエージェントに持たせることができます。消費者にとって買い物はより簡単に、より安全に、より楽しくなり、世界中の販売者にとっても商取引の拡大につながると確信しています。
3.2 エージェンティックコマースが中小企業を民主化するという仮説と展望
Ryan McInerney: Visaにとってエージェンティック・コマースは、まさに「マストウィン・バトル」です。eコマースが登場したとき、Visaはその立ち上げを支えました。モバイルコマースの波が来たときも、標準化と技術整備で対応しました。そして今、エージェンティック・コマースという第三の波が来ています。現在Visaは世界に50億枚のカード、1億7,500万の加盟店、そして130〜140億のVisaトークンをデジタルエコシステムの中に持っています。これが200の国と地域でエージェンティック・コマースを実装していくための基盤です。
ここで私が強く信じているのは、エージェンティック・コマースが世界の中小企業にとって強力な民主化の力になるという仮説です。現在、私たちの消費行動は少数の大型コマースプラットフォームや検索プラットフォームに集中しています。世界に無数のブランドや中小企業が存在するにもかかわらず、私たちの「検索の窓」は驚くほど狭いのです。
しかしエージェントが世界中の在庫をリアルタイムで検索し、妻へのプレゼントに最適なもの、一番条件の合う航空券、求めるスペックを満たす商品を探してくれる世界では、これまで知る機会すらなかった中小企業や地元のショップが選択肢に入ってきます。私自身、北カリフォルニアの自宅近くにあるランニングシューズの専門店を知らずにいましたが、エージェントがいれば自然とたどり着けたかもしれない。旅行先も、行き先も、これまでの検索の窓では思いつかなかった選択肢がAIによって広がります。エージェンティック・コマースはコマース全体の成長を促し、支出の幅を広げ、世界中の中小企業を底上げする力を持っていると確信しています。
4. エネルギー産業における大規模AI展開の実績(Amin Nasser/Saudi Aramco)
4.1 500ユースケース・数千億円規模の価値実現:地下探査・腐食管理・設備故障予測・収率最適化
Amin Nasser: 昨年のダボスでは400のユースケースについてお話ししました。今年はそれが500になりました。そのうち100のユースケースがパイロットから実際の本番展開へと移行しています。私たちはAI・デジタル投資の成果を「Technology Realized Value(技術実現価値)」という指標で毎年定量評価しています。以前は年間2〜3億ドル程度でしたが、2023〜2024年には60億ドルを達成し、そのうち50%以上がAI関連です。2025年の数字は現在サードパーティによる検証を進めており、来月公表予定ですが、30〜50億ドルを見込んでおり、こちらも50%以上がAI起因です。これらはすべて社内で決めた数字ではなく、第三者機関が各項目を精査した上で確認した数値です。
具体的にどこから価値が生まれているか、いくつか例を挙げましょう。まず上流の地下探査領域です。私たちは「インテリジェント・アースモデル」を構築しており、ドリルビットが地下を掘り進める際にリアルタイムでモデルを参照しながら地層誘導を行います。これによって生産ゾーンの割合が従来の80%超から90%超へと向上し、一部の坑井では生産性が30〜40%改善しました。これはコスト削減だけでなく、掘削本数が減ることで排出量の削減にも直結しています。
次に腐食管理です。腐食は世界で3兆ドル規模の課題ですが、AIを活用することで腐食抑制剤の使用量を最適化し、パイプラインの破損件数を減らし、設備の信頼性を大幅に高めることができました。設備の故障予測においても、機器が重大な損傷を起こす前に地上に引き上げるタイミングをAIが予測することで、稼働効率が顕著に改善しています。
下流領域では蒸留塔の収率最適化があります。従来はオペレーターが判断するまでに時間がかかっていましたが、AIによってその意思決定が分単位・秒単位で行えるようになり、蒸留塔の収率をリアルタイムで最大化できるようになりました。これらの取り組みはすべて、タイムラインと成果物と経済的インパクトを明確に定義したプロジェクトとして管理されています。パイロットから本番展開に移行する際には必ず優先順位付けと価値評価を行い、実際に効果が確認されたものだけを展開するという規律が、スケールを可能にした根本的な要因です。
4.2 スケール成功の構造:6,000人育成・データ品質・オペレーションモデル・VC部門の活用
Amin Nasser: ここまでの成果を支えた構造的な要因についてお話しします。まず人材育成です。私たちはAIに関して6,000人の専門家を育成しました。強調したいのは、これはデータアナリストの話ではないということです。数百人のデータアナリストは別にいます。6,000人というのは各業務領域の「サブジェクトマター・エキスパート」、つまり現場を熟知した専門家たちです。ユースケースのアイデアは彼らから生まれます。現場を知らなければ、どこに機会があるかを見抜けません。この6,000人が生み出すアイデアのパイプラインは尽きることがなく、今は優先順位をつけてどれをパイロットに進めるかを選ぶことが課題になっているほどです。
次にデータ品質です。「Garbage in, garbage out(質の低いデータを入れれば、質の低い結果しか出ない)」という原則は絶対です。Aramcoは90年間にわたって膨大なデータを蓄積・保全し続けてきました。それが可能だったのは、その時代から適切なインフラを整えていたからです。この長年のデータ資産が、今日のAIスケールの土台になっています。GPUやチップを買い揃えるだけでは価値は生まれません。データの質と、それを扱う人材があって初めて意味を持ちます。
オペレーションモデルの整備も重要でした。私たちはデジタル子会社を設立し、その中にAIセンター・オブ・エクセレンスを置きました。現場のアイデアをパイロットへ、パイロットを本番展開へと進めるための明確なプロセスとパスウェイを確立したことが、パイプラインを拡大し続ける原動力になっています。迅速な意思決定の仕組みも不可欠です。パイロット中であっても、継続・スケール・終了の判断を素早く下せる体制がなければ、価値の実現は遅れます。
さらにVC部門の活用も見逃せない要素です。Aramcoは約75億ドル規模のベンチャーキャピタル部門を持ち、世界中のスタートアップに投資しています。スタートアップが求めているのは資金だけではありません。自社技術を実際の大規模オペレーションでパイロットし、スケールさせる機会です。私たちはその場を提供できます。世界中からAI関連の優れた技術を発掘し、資金を提供し、Aramcoの現場でパイロットし、スケールアップする——このサイクルがなければ、これほど広範なユースケースの探索は不可能でした。
Julie Sweet: Aminが話してくれた内容には、スケールに必要なすべての要素が凝縮されています。まず適切なテックスタックがあること。Aramcoが今日のことを実現できているのは、何年もかけて基盤投資を続けてきたからです。McDonald'sも同様に、早期にデータ基盤を整えたことで今日のAI活用で先行しています。それに加えて、オペレーティングモデルと業務プロセスの再構築、そして「P&Lに見える形で価値を示す」という規律——これらをAminは一つの企業の中で実践しています。個別プロジェクトのスケールと、企業全体へのスケールはまったく異なる課題ですが、Aramcoはその両方を達成しつつある稀有な例です。
5. エンタープライズ規模のAI変革戦略(Julie Sweet/Accenture)
5.1 テックスタック・データ基盤・オペレーションモデル整備と「マストウィン・バトル」の特定
Julie Sweet: Accentureは多くの企業のAI変革を支援する立場にいますが、個別プロジェクトのスケールと、企業全体へのスケールはまったく異なる課題です。Aramcoはその両方を達成しつつある稀有な例ですが、多くの企業はまだ個別プロジェクトの段階にとどまっています。
企業全体にスケールするために必要な要素は大きく三つあります。第一に適切なテックスタックです。AIは企業が自社の技術基盤を根本から見直す触媒になっています。Aramcoが今日の成果を出せているのは、何年もかけて基盤投資を続けてきたからです。McDonald'sも同様に、早期にデータ基盤を整えたことでAI活用において今日先行しています。第二にデータ基盤です。なぜ多くの企業でスケールが進まないのか——答えはほぼデータにあります。世界全体で見ると、企業が取り組むべきデータ整備の90%以上がまだ手つかずの状態です。データ基盤の構築は高コストで長年敬遠されてきましたが、今やAI自体がそのデータ基盤の構築を加速する手段にもなっています。これはオプションではなく、スケールのための必須条件です。第三にオペレーティングモデルと業務プロセスの再構築です。「プロジェクトをどう動かすか」ではなく「オペレーション全体をどう変えるか」という問いに答えることが求められています。
そして、もう一つ不可欠な要素があります。それは「価値をP&Lに可視化する規律」です。AIへの投資対効果を経営指標に組み込み、リーダーの目標に埋め込む。この規律を持てた企業が、本物のスケールに踏み出せています。「これは本物だ、価値がある」と確信した企業はそこから大きな変革に動き出しますが、それは出発点によって難易度がまったく異なる大規模なトランスフォーメーションです。
さらに重要なのが「マストウィン・バトル」の特定です。Aramcoの最大の価値は上流の地下探査領域から生まれており、コーポレート機能ではありません。消費財やリテールにおいては、エージェンティック・コマースが今まさに戦うべき戦場です。まだ初期段階ではありますが、動きは速い。業界によって競争の基盤が変わりつつある今、「自分の業界でのマストウィン・バトルはどこか」を見極め、そこにリソースを集中しながら同時に基盤を整えていく——この二正面作戦が求められています。
5.2 データ未整備企業への処方箋:「二速走行」アプローチと投資余力の創出
モデレーター: Aramco、Visa、Philipsのような企業はいずれも豊富なデータ資産を持っています。そうした資産を持たない企業はどうすればよいのでしょうか。
Julie Sweet: まず現実を直視することが必要です。世界全体で見て、企業が対応すべきデータ整備の90%以上がまだ残っています。テクノロジー自体も進化し続けており、AIを使ってデータ基盤を構築するという新しいアプローチが生まれています。ただしその作業を避けることはできません。
データ未整備の企業に私が勧めるのは「二速走行」のアプローチです。まず一方では、長年放置されてきた基本的な非効率を解消することで投資余力を作ります。断片化したプロセス、管理層の過剰なスパンとレイヤー、標準化されていない業務——これらは過去10年間に手をつけられるべき課題でした。ここを整理することで生まれた余力を、AI基盤への投資に充てるのです。もう一方では、すでに手元にある技術やAIをフル活用しながら、マストウィン・バトルに必要なデータ領域に絞って集中的に整備を進める。この二つを同時並行で走らせることが、出遅れた企業が現実的にスケールへの道を切り拓く方法です。データがないことを言い訳にする時代はすでに終わっています。問題は意志と優先順位です。
6. 医療AIの未来展望・倫理・信頼の設計(Roy Jakobs)
6.1 エージェントが担う具体的な臨床タスクと、医師82% vs AI要求水準95%という公平性の問題
Roy Jakobs: 医療におけるエージェントの活用は、今後最大のブレークスルーになると考えています。その理由は明確です。放射線科医も、技術者も、看護師も、絶対的に不足しています。人手不足を前提としてケアパスウェイを再設計し、エージェントに任せられるタスクを特定していくことが不可欠です。
具体的に何ができるかを見てみましょう。がん患者を例にとると、最初のスケジューリングという一見地味なステップから始まり、来院時には電子カルテ、画像データ、リアルタイムのモニタリングデータを複数システムから統合した患者の全体像をエージェントが準備します。腫瘍委員会の審議に必要な資料作成も、現在は極めて手間のかかるプロセスですが、エージェントが担うことができます。退院後のフォローアップも同様です。今は看護師が毎日電話をかける時間的余裕はありませんが、エージェントであれば患者に定期的に連絡を取り、状態を聞き取り、身体モニタリングのデータと組み合わせて医療システムにフィードバックできます。これによって医療は反応的なものから予防的なものへと根本的に変わります。
ただし、ここで「AIへの公平性」という問題を正直に議論しなければなりません。平均的な医師が診断を正しく行う確率は82%です。にもかかわらず、私たちはAIを現場に導入する前に95%の精度を要求することが少なくありません。この13%の差は、患者アウトカムに換算すれば膨大なインパクトです。AIをどの範囲で自律的に動かし、どこで患者の利益や安全を守るための境界を設けるか——そのトレードオフを、私たちは今まさに学びながら決めていく必要があります。
6.2 業界自主規制・エコシステム協調・がん患者のデータプライバシーに関する逆説的知見
Roy Jakobs: 信頼とAIというテーマで、規制と自主規制の問題を避けることはできません。規制は技術の速度に追いつけていません。だからこそ私たちは規制の先を行き、自ら規律を設けなければなりません。その実践例として、米国のNational Academy of Medicine(国立医学アカデミー)が主導したイニシアティブがあります。Mayo Clinic、Google、Philips、患者擁護団体が一堂に集まり、医療AIに適用すべき行動規範を産業横断で策定しました。どのようにテストするか、どのように検証するか、どの程度の厳密さを適用するか、バイアスへの対処をどう行うか——これらを業界として自ら定義し、実践することで、信頼の基盤を作っています。
次に、データプライバシーについて重要な逆説をお話しします。ステージ3・4のがん患者にとって、データプライバシーの意味は健康な人のそれとはまったく異なります。末期に近い状態にある患者が本当に望んでいるのは、世界中のあらゆるデータセットを自分の治療のために使ってほしいということです。匿名化されていても、プライバシーに抵触しない形であっても、そのデータが新たな治癒法の発見につながるなら、患者はむしろそれを強く求めます。欧州でも世界でも、このデータの壁を突き破ることが、医療課題を解決する次のフロンティアです。
最後に強調したいのは、これは決して一社で完結できる課題ではないということです。Philips単独では医療の現場を変えることはできません。電子カルテシステムとの連携、ワークフローへのAI統合、規制当局・臨床家・医療システム・他の革新企業との緊密な協調——システム全体のパラメータを同時に変えなければ、現場は変わりません。AIを技術的な課題として捉えるのをやめ、コラボレーションの課題として捉えること。それが、医療AIの真の可能性を引き出す鍵です。
7. 人材・リーダーシップ・組織変革の壁
7.1 「理解なくして信頼なし」:Accentureのリーダー主導学習とVisaの300人ハンズオン研修の体験的知見
Julie Sweet: ここまでの議論——プロセスの再設計、エコシステム協調——を実現するには、テクノロジーを深く理解することが前提になります。医療を例にとれば、「このやり方で何十年もやってきた、これで機能している」という現場の医師が、AIを取り入れた新しいプロセスを設計するには、その技術を十分に理解していなければなりません。規制当局も、医療システムのリーダーも同じです。デジタル変革の時代とは異なるレベルの理解が求められており、これが多くの組織にとって大きな障壁になっています。そして「理解できなければ信頼できない」——消費者であれ、規制当局であれ、医師であれ、リーダーであれ、これは普遍的な真理です。
Accentureでは「リーダー主導の学習(Leader-Led Learning)」を実践しています。まずリーダー自身から始めました。会社全体を変革できるのは、リーダーがAIの力を本当に理解しているときだけです。企業・政府・教育システムのあらゆるレベルで、この理解を深めるための取り組みがまだ大量に残っています。よく経営者から「3年後、5年後に自分の会社はどう動いているか」と聞かれますが、私はいつもこう答えます。「今日できないことが、AIによってできるようになっているか。今日は得られない洞察が得られているか——それを問い続けることが重要だ」と。
Ryan McInerney: Julie、あなたの言葉が刺さりました。正直に言うと、10分前にそれを聞いて「してやられた」と思いました。Visaでの経験をお話しします。私たちは社内の全員がLLMにアクセスできるよう民主化を進め、私自身が18ヶ月間トップからその重要性を説き続けました。ところが、なかなかブレークスルーが来なかった。転機は、トップ300人のリーダーを一堂に集めて2日間の集中研修を行ったときです。講義を聞くだけではありません。実際にキーボードに手を置いてエージェントを構築し、監督を受け、評価される——完全にハンズオンの体験型研修でした。その300人のリーダーが自信を持ってエージェントを使いこなし、自分のチームを率いられるようになったとき、初めて本当のアンロックが起きました。民主化だけでは不十分だったのです。リーダーが体験を通じて確信を持つことが、組織全体を動かす鍵でした。もっと早くこれをやっておけばよかったと、今は強く思っています。
Roy Jakobs: 付け加えるとすれば、テクノロジーの開発と同じだけの時間とコストを「アドプション設計」に投じるべきだということです。私たちはテクノロジーに興奮しすぎる傾向があります。しかし本当に impact を生みたいなら、開発の最初の瞬間から「これが現場にどう着地するか」を考え抜く必要があります。アドプションこそが成功を測る場所であり、それはテクノロジーよりも、現場の実践への深い理解と、そこに関わる人間をどう巻き込むかの問題です。この学びに気づくまで、数年かかりました。
8. 登壇者それぞれの「もっと早く知りたかった教訓」と総括
8.1 「人間が主導する」への転換・体験型トレーニングの威力・アドプション設計への等分の投資
モデレーター: 最後に、AIのスケーリングについてもっと早く知っておきたかったことを、それぞれ一言でお聞きします。
Julie Sweet: 「ループの中の人間(Human in the Loop)」ではなく、「主導する人間(Human in the Lead)」という発想への転換です。私たちはこれからも人間が会社を動かし、人間がインスピレーションを与え続けます。テクノロジーの景色は大きく変わりますが、主役は人間です。そしてもう一つ——AIの取り組みは「AIプロジェクト」ではなく「ビジネスの課題」として位置づけなければなりません。ビジネス部門が初日から関与していなければ、買うことはできても、スケールすることはできても、組織全体に根付かせることはできません。
Ryan McInerney: Julie、あなたのリーダー主導の学習という言葉は本当にその通りでした。Visaでの反省をもう一度言わせてください。LLMへのアクセスを全社に開放し、18ヶ月間トップからメッセージを発信し続けたにもかかわらず、本当のブレークスルーはトップ300人を一堂に集めて2日間のハンズオン研修を行うまで来ませんでした。アクセスの民主化だけでは不十分です。リーダーが自ら手を動かし、体験を通じて確信を持つこと——それが組織全体のアンロックになります。もっと早くこれをやっておけばよかった。
Roy Jakobs: テクノロジーの開発と少なくとも同じだけの時間とエネルギーを、アドプションに投じることです。私たちテクノロジー企業は、どうしてもテクノロジーそのものに興奮しすぎます。しかし本当にインパクトを生みたいなら、開発の最初の瞬間から「これが現場にどう着地するか」を設計に組み込まなければなりません。アドプションこそが成功の測定点であり、それは現場の実践への深い理解と、そこに関わる人間を巻き込む力の問題です。
モデレーター: 本日の議論は、最初に立てた問いと同じ場所に戻ってきました。オペレーションの効率化ではなく、アウトカムを中心に据えること。そしてRoyがおっしゃった言葉——「理解できなければ信頼できない」——は、今日の議論全体を貫くメッセージだったと思います。Roy、Ryan、Amin、Julie、本当にありがとうございました。
