※本記事は、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)が主催する「GLOCOM六本木会議オンライン#81」(2024年7月22日開催)の内容を基に作成されています。GLOCOM六本木会議は、情報通信分野における革新的な技術や概念に適切に対処し、日本がスピード感を失わずに新しい社会に移行していくための議論の場として2017年9月に設立された産官学民による活動です。 本セッションでは、産業技術総合研究所の杉村領一氏を講師に、東京通信大学教授・GLOCOM主幹研究員の前川徹氏が進行を務め、AI国際標準の現状と課題について議論が行われました。イベントの詳細情報は https://roppongi-kaigi.org/ でご覧いただけます。 本記事は講演内容を要約したものであり、発言者の見解を正確に反映するよう努めていますが、要約や解釈による誤りがある可能性があります。正確な情報や文脈については、オリジナルの講演動画(https://www.youtube.com/watch?v=7Nyle1IEvbs )をご視聴いただくことをお勧めいたします。
【登壇者】 ◇杉村 領一(すぎむら りょういち) 国立研究開発法人産業技術総合研究所 情報・人間工学領域 連携推進室 チーフ連携オフィサー 1980年松下電器産業入社。ICOT研究員、英国Panasonic OWL社長、松下電器先端技術研究所モバイルネットワーク研究所長、パナソニックモバイルコミュニケーションズ基本システム開発センター長、NTTドコモ戦略担当部長、TIZENアソシエーション議長等を経て2016年より現職。AI研究と国際経営の専門家として、人工知能に関するPhDを取得。国際標準化活動においては、ISO/IEC JTC1/SC 42国内委員会の委員長を務める。
◇前川 徹(まえかわ とおる) 東京通信大学 情報マネジメント学部 教授/GLOCOM主幹研究員 1978年通商産業省入省。機械情報産業局情報政策企画室長、JETRO NYセンター産業用電子機器部長、IPAセキュリティセンター所長、早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員教授(専任扱い)、富士通総研経済研究所主任研究員、サイバー大学IT総合学部教授等を経て、2018年4月から現職。一般社団法人コンピュータソフトウェア協会専務理事、国際大学GLOCOM所長などを歴任。
進行:小島 安紀子(こじま あきこ) GLOCOM六本木会議 事務局/国際大学GLOCOM シニアコーディネータ
1. はじめに
1.1. AIと科学技術の発展の歴史的背景
杉村:私はAIと同い年で、1980年代に漢字変換システムが世の中になかった時代から、AI技術の研究開発に携わってきました。当時、漢字変換はAIの最先端の実用化技術でした。これは今から考えると信じられないかもしれませんが、それが実際の歴史なのです。
前川:科学技術の発展との関係性について、どのようにお考えですか?
杉村:私の博士課程の指導教官であった長尾誠先生が「情報学は哲学の最前線」という著作で述べているように、科学技術は3つの大きなフェーズを経てきました。第一近似としてのガリレオ・ニュートン時代、これは簡単な手作業による簡単な一般理論の時代です。第二近似として各分野で固有の理論が発展した時代、そして第三近似として実データを大量に使用してコンピュータで処理する現代です。
前川:それはAIの発展とも関係があるのでしょうか?
杉村:はい、非常に興味深い関係性があります。実は、AIの発展波である第一次、第二次、第三次のAIブームは、この科学技術の三つの近似をなぞるように発展してきているのです。これは生物学でいう「個体発生は系統発生を繰り返す」という現象に似ています。AIは常に人間の科学技術の発展をなぞるように進化してきているのですが、最近の第三次AIブームでは、むしろAIが人間に対して大きな影響を与えるような存在になってきています。
前川:それは従来のAI技術とは質的に異なる変化ということですね。
杉村:その通りです。第二次AIブームの時代には見られなかった現象です。当時と現在の決定的な違いは、AIが人間の知識や能力を超えて、新しい知見を生み出せるようになってきているという点です。この変化は、標準化を考える上でも非常に重要な意味を持っています。私たちは、この新しい段階に入ったAIをどのように扱い、どのように制御していくべきか、真剣に考える必要があるのです。
1.2. AIの3つの波と科学技術の3つの近似の関係性
前川:杉村さん、AIの発展の波について、もう少し具体的にお話しいただけますか?
杉村:はい。AIの発展は3つの大きな波として捉えることができます。第一次ブームでは、チェスのルールのように簡単に規則が書き下せるものから始まりました。これは科学技術の第一次近似における単純な一般理論の時代と対応しています。
前川:第二次AIブームについてはどのような特徴がありましたか?
杉村:第二次AIブームでは、エキスパートシステムと呼ばれるもので、人間が持っている知識を体系的にエンコードすることを試みました。しかし、興味深い課題に直面しました。例えば、ロボットを歩かせることは実は非常に困難でした。人間は歩くことができるのに、どのように歩くのかを明確に説明することができなかったのです。
前川:そして現在の第三次AIブームではどのような変化が起きているのでしょうか?
杉村:現在の第三次AIブームでは、人間自身が説明することが難しい知識や技能を、AIが実現できるようになってきています。さらに注目すべき点は、我々人間が持っていない、説明もできないような新しい知見を見つけ出す可能性が出てきていることです。これは科学技術の第三次近似における実データ処理の時代と密接に関連しています。
前川:それは非常に興味深い観点ですね。つまり、AIの発展は単なる技術の進歩ではなく、人類の知識獲得の過程をなぞっているということですか?
杉村:その通りです。これは生命の発達における「個体発生は系統発生を繰り返す」という原理に似ています。AIは人類の科学技術の発展をなぞるように進化してきていますが、現在は人類の知識を超えて、新たな領域に踏み込もうとしている段階にあります。このことは、AIが社会に与える影響の大きさを考える上で非常に重要な視点となります。
2. AI標準化を取り巻く背景
2.1. グローバル化によるコミュニケーションの変化
杉村:地球が急速に「狭く」なってきていると強く感じています。私の経験をお話しすると、1986年に初めて国際会議で論文が通った時のことが印象的です。当時のCOLING '86がドイツで開催され、ヨーロッパを回っていた際、論文集が重すぎて持ち歩けなくなり、アムステルダムで全て船便で日本に送り返したんです。
前川:それは興味深いエピソードですね。その後どうなったんですか?
杉村:帰国後、ICOT(新世代コンピュータ技術開発機構)の所長から「おい杉村、プロシーディングはどこにあるんだ」と聞かれ、「重いので船で送りました。3ヶ月後に届きます」と答えたところ、「ふん。届いたら教えろ」と言われただけでした。今では考えられない話ですよね。
前川:確かに現在では情報共有の形態が大きく変わっていますね。
杉村:はい。現在では資料は即座に共有され、私の日常は朝から晩まで世界中の方々とウェブ会議をすることが当たり前になっています。さらに興味深いデータがあります。2020年に1日にやり取りされるデータ量を紙に書いて積み上げると、地球から太陽まで行って帰ってこれるほどの量だそうです。
前川:そのような変化は、誰が推進しているのでしょうか?私たちなのでしょうか、それともAIなのでしょうか?
杉村:それが本質的な問いですね。この変化を起こしたのは間違いなく科学技術ですが、その中でAIが果たす役割は非常に大きくなっています。特に現在のAIは、このコミュニケーションの変革を加速させる存在となっています。私たちが単にAIを利用しているのか、それともAIによって私たちのコミュニケーションのあり方自体が変容させられているのか、その境界線が曖昧になってきているのです。
前川:つまり、グローバル化とAIの発展は相互に影響し合っているということですね。
杉村:その通りです。このような急激な変化は、AI標準化を考える上で重要な背景となっています。なぜなら、standardization(標準化)自体が、このようなグローバルなコミュニケーションを前提として進められる必要があるからです。
2.2. AIが社会に与えるインパクトへの認識
前川:杉村さん、AIの社会的影響について、特に標準化の観点からどのようにお考えですか?
杉村:AIの影響力については、これまでの新技術とは質的に異なる特徴があります。従来の技術革新は、特定の産業分野における機能性能、コスト競争力、品質の向上といった限定的な影響でしたが、現在のAIは社会のあらゆる分野に影響を及ぼす可能性があります。
前川:その影響の広がりについて、具体的な例を挙げていただけますか?
杉村:例えば、AIは我々が理解できないほど膨大なデータを瞬時に処理し、人間では追いつけないような判断を行うことができます。これは単なる処理能力の問題ではなく、人間社会の意思決定プロセスそのものに影響を与える可能性があります。
前川:そうなると、AIの制御や管理も従来の技術とは異なる approach が必要になりますね。
杉村:その通りです。このため、AIを真に社会に役立てるために、新たな価値観として「Trustworthy」という概念が広く使われ始めています。これは単なる技術的な信頼性だけでなく、社会的な信頼性も含む包括的な概念です。また、AIの判断プロセスの「説明可能性」なども重要な技術目標として議論されています。
前川:第2次AI時代と比べて、そのような社会的な議論の広がりに違いはありますか?
杉村:はい、大きな違いがあります。第2次AI時代には、これほど多くの国や団体がAIの使い方に関する方針文書を出すことはありませんでした。これは、現在のAIが社会に与えるインパクトの大きさを、多くの有識者が認識しているからこそだと考えています。
前川:そのような認識の変化は、標準化活動にも影響を与えているのでしょうか?
杉村:もちろんです。このような社会的インパクトへの認識が、AIの国際標準化に大きな期待を寄せる背景となっています。標準化活動は、AI技術がもたらし始めた新しい活動を横断的につなぎ、総合的な視野を与えるツールとして重要な役割を果たすことが期待されているのです。
2.3. 各国・団体のAIポリシーの展開
前川:各国のAIポリシーについて、特徴的な動きを教えていただけますか?
杉村:はい。各国・地域で特徴的なアプローチが見られます。例えばヨーロッパは、リスクベースアプローチとハードローを重視し、AI Actを中心に展開しています。最近ではAI Trust Allianceという構想も出てきています。
前川:イギリスの場合は、EUとは異なるアプローチを取っているのでしょうか?
杉村:その通りです。イギリスはAlan Turing InstituteとBritish Standards Institute(BSI)が連携しながら独自の道を歩んでいます。一方、カナダは第3次AIブームの中心人物である吉便所先生らの影響もあり、新しいアプローチを模索しています。
前川:アメリカはどのような特徴がありますか?
杉村:アメリカはリスクベースアプローチを採用していますが、大統領令に従って主にNIST(国立標準技術研究所)が文書を出しています。同時に、IEEE等の学会も独自の文書を発表しており、官民それぞれが自由な動きをしています。
前川:ドイツはEUの一員ですが、何か独自の動きはありますか?
杉村:はい。ドイツはEUの枠組みの中にありながら、ドイツらしく様々な機関がしっかりと国内で議論を重ね、独自の標準文書も出しています。
前川:アジアの動きはいかがでしょうか?
杉村:特徴的なのはシンガポールです。AI Verifyと呼ばれるAIシステムの評価枠組みを提案し、これは世界的に注目を集めています。実際、ヨーロッパやアメリカの有識者もこれについて詳しく研究しています。
前川:大手IT企業の動きについてはどうでしょうか?
杉村:GAAFAMと呼ばれる企業群は、その影響力の大きさから、独自のAIポリシーやプリンシプルを発表しています。また、AIサービスの展開も積極的に進めています。
前川:日本の状況はいかがですか?
杉村:日本も様々なベンチャー企業が動き始めています。ただし、よく「AIは結局儲かっているのか」という質問を受けますが、総務省の統計を見ても、AI関連事業は着実に成長を示しています。これは第2次AI時代とは大きく異なる点です。第2次AI時代は「冬の時代」を迎えましたが、現在は着実に事業として成長していることが示されています。
前川:2012年以降、特に政策面で変化が加速したということですね。
杉村:その通りです。2012年に第3次AIの波が始まって以降、自動車業界などが特に早い動きを見せ、2014年にはWP29やWP1といった国連の会議体で標準化や規制の議論が始まりました。その後、学会レベルでのIEEEの活動や、ISO/IEC JTC1/SC42でのAI標準化など、様々な取り組みが加速的に展開されています。
3. 国際標準化の基本構造
3.1. 標準化の定義と階層構造
前川:標準化の基本的な定義について、まずお聞かせいただけますか?
杉村:はい。標準化の定義は、JIS Z 8002などの公式文書で明確に規定されています。具体的には、「最適な秩序を達成し、共通的に繰り返して使用するものを対象として、規則、指針または特性を定義する文書であって、団体によって承認されているもの」とされています。一言で言えば、国際的コンセンサスを構築するための土台となるものです。
前川:歴史的な背景についても触れていただけますか?
杉村:興味深いことに、標準化の歴史は古代エジプトのピラミッド建設の時代にまで遡ります。当時から、大規模なプロジェクトには共通の基準が必要とされていたのです。
前川:現代の標準化体系はどのように構成されているのでしょうか?
杉村:標準化の体系は、大きく分けて4つの階層があります。最上位に国際標準があり、これにはISO、IEC、ITUなどが該当します。次に地域標準、例えばヨーロッパの標準などがあります。その下に国家標準、そして団体標準という階層構造になっています。
前川:デジュール標準とデファクト標準の違いについて説明していただけますか?
杉村:はい。上位の方から並ぶISO、IEC、ITU、地域標準、国家標準などはデジュール標準と呼ばれ、正式な標準化プロセスを経て策定されます。一方、団体や企業が作成する標準はデファクト標準と呼ばれ、市場での実績によって事実上の標準となっていくものです。
前川:それぞれの標準の影響力に違いはありますか?
杉村:はい。国際標準、特にISO、IEC、ITUによって策定される標準は、世界中の国が参加して作成されるため、最も影響力が大きいと言えます。これらの標準は、後ほど説明するWTO TBT協定とも密接に関連しており、国際貿易にも大きな影響を与えます。実務的には、より上位の標準に整合させる形で下位の標準が作られていくという構造になっています。
3.2. ISO/IEC JTC1の組織体制
前川:ISO/IEC JTC1の組織構造について、具体的にご説明いただけますか?
杉村:はい。ISO/IEC JTC1は、ISOとIECという二つの親を持つ共同技術委員会です。情報通信技術の関係の標準を作る際、ISOとIECがそれぞれ別々に作業を進めることは非効率であるという認識から設立されました。
前川:実際の運営体制はどのようになっているのでしょうか?
杉村:JTC1の下には多数のSC(分科委員会)が設置されています。例えば、SC27はサイバーセキュリティとプライバシー、SC38はクラウドコンピューティング、SC40はITガバナンスとサービスマネジメントを担当しています。私たちが活動しているSC42は、これらの中でAIに特化した委員会として位置づけられています。
前川:国内での審議体制についてはいかがですか?
杉村:日本では、ISOとIECに対応するレベルとして日本工業標準調査会があります。これは経済産業省の審議会で、日本の有識者のトップクラスの方々で構成されています。その下にJTC1に対応する技術委員会があり、これは情報処理学会の標準調査会に設置されています。
前川:実際の標準化作業はどのように進められるのですか?
杉村:我々が国としての判断を出す際には、必ず技術委員会に審議を依頼し、承認を得てから国の意見として提出するという手順を踏んでいます。SC42の場合は情報技術調査会が担当していますが、例えばSC39は別の審議団体が担当するなど、性質によって審議団体が分かれている場合もあります。
前川:そのような複雑な体制で、スムーズな意思決定は可能なのでしょうか?
杉村:これは重要な指摘です。確かに階層構造は複雑ですが、この「ミラー関係」と呼ばれる体制によって、国際的な合意形成と国内の意見集約を並行して進めることが可能になっています。特に、AIのような新しい技術分野では、多様な利害関係者の意見を適切に反映させる必要があり、この体制が効果を発揮していると考えています。
3.3. WTO TBT協定の重要性
前川:WTO TBT協定が国際標準化に与える影響について、具体的にご説明いただけますか?
杉村:はい。WTO TBT協定(Technical Barriers to Trade:貿易の技術的障壁に関する協定)は、国際標準化にとって極めて重要な意味を持っています。この協定の本質は、各国が認証制度等を含めて標準を作る際に、国際標準とほとんど同じようなものを独自に作ることを防ぐことにあります。
前川:それは具体的にどのような影響をもたらすのでしょうか?
杉村:例えば、ある国が独自の標準を作ろうとする場合、既存の国際標準と似て非なるものを作ることは、WTO TBT協定違反となる可能性があります。そのため、新しい標準を作る際には、必ず国際標準を参照し、それとの整合性を確保する必要があります。
前川:各国固有の事情への対応はどのようになっているのですか?
杉村:もちろん、各国の事情に応じて細かな標準を作ることは認められています。しかし、その場合でも、国際標準との整合性を確保することが求められます。例えば、AIの分野で言えば、各国固有の規制要件を導入する際にも、SC42などで策定された国際標準との整合性を考慮する必要があります。
前川:そうすると、標準化に関わる実務者は、常に国際標準を意識する必要があるということですね。
杉村:その通りです。実際の業務において、新しい標準や認証制度を検討する際には、必ず国際標準の内容を確認することが重要です。このことは、AI分野の標準化においても同様で、各国の独自の取り組みと国際標準化活動の間で適切なバランスを取ることが求められています。
前川:AIのような新しい技術分野でも、この原則は変わらないのでしょうか?
杉村:はい。むしろAIのような新興技術分野こそ、国際的な整合性が重要です。なぜなら、AIは本質的にグローバルな技術であり、各国がバラバラの基準を設けることは、技術の発展や普及の障害となる可能性が高いからです。そのため、WTO TBT協定の精神に則って、国際的な協調を図りながら標準化を進めていく必要があります。
4. SC42の活動状況
4.1. SC42の組織構成と参加国
前川:SC42の現在の参加国の状況について、具体的にお聞かせいただけますか?
杉村:はい。SC42は現在、64カ国が参加していますが、その構成は非常にダイナミックで、毎回新しいメンバーが加わっている状況です。地理的な分布を見ると、アジアはほとんどの国が参加しており、南北アメリカからも多くの国が参加しています。最近の特徴として、アフリカからの参加国が増加傾向にあります。
前川:メンバー国とオブザーバー国の違いについて説明していただけますか?
杉村:SC42では、パーマネントメンバーが39カ国、オブザーバーメンバーが25カ国という構成になっています。さらに、7つのリエゾン組織も参加しています。これは、SC42が国際的なAI標準化において重要な位置を占めていることを示しています。
前川:その規模は他の委員会と比べてどうなのでしょうか?
杉村:実は、SC42は2023年にローレンスDアイカー賞を受賞しました。これは、SC27が受賞してから8年ぶりの快挙です。現在、JTC1の中でSC27に次ぐ第二位の規模になっており、AIに関する国際的な関心の高さを反映しています。
前川:地域バランスについては何か配慮されているのでしょうか?
杉村:はい、地域バランスは非常に重要な考慮事項です。例えば、コンビーナー(取りまとめ役)の選出などでも、特定の地域に偏らないよう配慮しています。実際、日本が複数のワーキンググループのコンビーナーを引き受けることができたのも、このような地域バランスへの配慮があったからです。ただし、同時に、過度に一つの国や地域に役割が集中することは避けるようにしています。
4.2. ワーキンググループの構成と活動内容
前川:SC42のワーキンググループ構成について、詳しくご説明いただけますか?
杉村:はい。SC42には現在、5つのパーマネントワーキンググループがあります。WG1はファンダメンタルスタンダード(基礎)、WG2はデータ、WG3はトラストワージネス、WG4がユースケースとアプリケーション、WG5がコンピュテーショナルアプローチとAIシステムを担当しています。
前川:それぞれのグループの議長国について教えていただけますか?
杉村:WG1はカナダが議長を務めています。WG2は一時期日本が担当していましたが、その後変更になりました。実は、WG2の議長継続を要請されたのですが、私たちはお断りしました。その理由は、当時すでにWG4とJWG3のコンビーナーを日本が担当しており、全10のワーキンググループのうち4つも日本が取ることは、地域バランスを崩すことになると判断したためです。
前川:ジョイントワーキンググループについてはいかがですか?
杉村:現在、複数のジョイントワーキンググループが活動しています。特筆すべきは、JWG3「AIイネーブルヘルスインフォマティクス」で、ISO TC215との共同ワーキンググループとして、前人工知能学会会長の妹尾匡先生がコンビーナーを務めています。また、以前はJWG1で原田要之助先生(情報セキュリティ大学院大学名誉教授)が活動されていましたが、こちらは作業を終えて解散しています。
前川:他の技術委員会との連携はどうなっているのでしょうか?
杉村:各分野との協力関係は非常に活発です。SC42の特徴として、他の技術委員会とのジョイントワーキングや協力関係が多いことが挙げられます。これは、AIが横断的な技術であり、様々な分野に影響を与えるという特性を反映しています。
前川:具体的な成果はどのようなものがありますか?
杉村:各グループから多くの標準が出版されています。例えば、AI用語の標準化、マネジメントシステム標準、データ品質に関する標準などが既に発行されており、さらに多くのプロジェクトが進行中です。特に最近では、実際のビジネスの進展に伴い、より具体的で実践的な標準の必要性が高まっており、各グループの活動も活発化しています。
4.3. 日本の貢献と役割
前川:日本のSC42への貢献について、具体的にお聞かせいただけますか?
杉村:はい。日本は現在、SC42において非常に重要な役割を果たしています。特に、26の組織から54名の専門家が参加しており、量的にも質的にも大きな貢献をしています。
前川:具体的にどのような分野でリーダーシップを発揮しているのでしょうか?
杉村:日本は特にヒューマンマシンティーミングの分野で主導的な役割を果たしています。これは日本の強みを活かした分野です。というのも、日本は人間と機械の関係性をオープンに議論することに対して、比較的抵抗が少ない文化を持っています。
前川:他の国々との違いはありますか?
杉村:はい、特に欧州では「アンスロポモーフィズム」、つまりAIの擬人化に対して強い嫌悪感を持つ専門家が多いのです。このような文化的な違いがある中で、日本が中立的な立場でリーダーシップを取れることは大きな利点となっています。
前川:国際会議での活動状況はいかがですか?
杉村:最近のソウルでの総会では、対面で162名、リモートで132名の参加があり、そのうち日本からは27名が参加しました。また、経済産業省からは2019年から海外折衝を含めた審議のためのサポートもいただいています。
前川:今後の課題はありますか?
杉村:はい。現在の大きな課題の一つは、AI冬の時代を経験した関係で、どうしてもシニアな専門家が多くなっている点です。人工知能学会の全国大会を見ると若い方々が多く参加されているので、こうした次世代の専門家たちにも国際標準化活動に参加していただける機会を作っていきたいと考えています。この思いは、官庁や学協会とも共有されています。
前川:IPAのAIセーフティ・インスティテュートとの連携についてはいかがですか?
杉村:IPAのAIセーフティ・インスティテュートには大変期待しています。彼らはより広い視野でポリシーレベルでの検討を行っており、我々の技術標準化活動を補完する重要な役割を果たしています。標準化活動だけでなく、より包括的なAIガバナンスの枠組みを考える上で、彼らとの協力は不可欠だと考えています。
5. 主要な標準化成果
5.1. AIの用語・概念の標準化(ISO/IEC 22989)
前川:AIの用語・概念の標準化について、具体的な成果を教えていただけますか?
杉村:はい。ISO/IEC 22989は、AIに関する基本的な用語と概念を定義した重要な標準です。特筆すべき点として、この規格は無料でダウンロードできるようになっています。JIS規格としてもJIS X 2298として日本語版が発行されていますので、必要な方はそちらも参照できます。
前川:内容面で特徴的な点はありますか?
杉村:はい。実は、この標準を読む際に最も興味深いのは、何が記載されていないかという点なんです。例えば、AIの専門家の方々にすぐに気付いていただけることですが、「ナレッジ」の定義やAIそのものの定義が含まれていません。AIに関してはディシプリン(学問分野)としての定義とAIシステムの定義はありますが、AIそのものについては定義されていないんです。
前川:それは意図的なものなのでしょうか?
杉村:その通りです。これは単なる抜け漏れではなく、国際的な合意形成の結果です。AIという概念があまりにも広く、各国がそれぞれ異なる見解を持っていたため、結局合意に至らなかったのです。そのため、より具体的な「AIディシプリン」や「AIシステム」といった用語に限定して定義を行うことにしました。
前川:無料公開にした理由は何でしょうか?
杉村:これはAI技術を真に社会に役立てるために、できるだけ多くの人々がアクセスできるようにしたいという考えからです。企業の方々には、英語版を無料でダウンロードして参照していただけます。また、ISO/IECのホームページで「ダウンロード可能」と書かれているところから入手できます。
前川:この標準は今後どのように活用されていくのでしょうか?
杉村:この用語標準は、他のAI関連標準を作成する際の基礎となります。また、各国がAIに関する政策や規制を検討する際の共通言語としても機能することを期待しています。特に、AIの倫理的な側面や社会的な影響を議論する際に、共通の用語体系があることは非常に重要です。
5.2. マネジメントシステム標準(ISO/IEC 42001)
前川:ISO/IEC 42001のマネジメントシステム標準について、既存のISO規格との関係を教えていただけますか?
杉村:はい。ISO/IEC 42001は、既存のマネジメントシステム規格、特にISO 9000シリーズを参考にしています。具体的には、「ブループリント」と呼ばれる基本テキストがあり、これを基礎としてAI特有の要求事項を追加する形で構成されています。
前川:マネジメント企画の特徴的な部分はどこにありますか?
杉村:重要な点は、既存の企画と異なり、AIマネジメントシステムでは完全な人間のコントロールを前提としていない点です。AI特有の不確実性や、人間の理解を超えた判断が行われる可能性を考慮に入れています。
前川:具体的な構成はどのようになっていますか?
杉村:基本的にはPDCAサイクルに基づいていますが、AIシステムの特性を考慮した要求事項が追加されています。また、認証制度との関連性も考慮されており, 第三者認証の可能性も視野に入れた構成になっています。
前川:この標準の活用について、企業からの反応はいかがですか?
杉村:実は、42001は非常に広範な内容を含んでおり、読み込むだけでもかなりの時間がかかるという声をいただいています。そのため、より簡単に使える形式の標準も必要ではないかという議論が出てきています。
前川:今後の展開についてはどのようにお考えですか?
杉村:実は、この42001は他のマネジメントシステム規格と「コンステレーション」(星座)のように関連付けて整理することを提案しています。これは日本から提案したアプローチで、ISO 27000シリーズなどの既存の規格体系を参考にしています。このアプローチは世界各国から支持を得ており、現在も議論を進めています。
5.3. データ品質に関する標準(ISO/IEC 5259シリーズ)
前川:データ品質に関する標準について、開発の背景をお聞かせいただけますか?
杉村:はい。ISO/IEC 5259シリーズは、「Data Free Flow with Trust (DFFT)」という概念への対応として、日本から提案したシリーズ規格です。私たちはこの言葉が出てきた時に、データ品質に関する標準を出さなければならないという強い危機感を持ちました。
前川:具体的にはどのような構成になっているのでしょうか?
杉村:このシリーズは全6部で構成されており、パート5まではシリーズ全体の構造を日本から提案しました。特徴的なのは、日本が単独で全てを作るのではなく、各国の専門家と協力して作業を進めるアプローチを取ったことです。例えば、産総研のAI研究センターの副センター長のキムさんがパート2の作成に携わっています。
前川:国際的な反応はいかがでしたか?
杉村:各国からとても前向きな反応を得ました。特に、シリーズ全体の枠組みを最初に提示し、その中で各国と協力して個別の規格を作っていくというアプローチが評価されました。これは、日本の国内での議論が国際標準化活動に効果的に反映された好例と言えます。
前川:品質評価の方法論について、特徴的な点はありますか?
杉村:はい。このシリーズの特徴は、AI特有のデータ品質の課題に焦点を当てていることです。例えば、学習データの品質、推論時のデータの品質、さらにはAIシステム全体でのデータの流れにおける品質管理など、包括的なアプローチを採用しています。
前川:今後の展開についてはどのようにお考えですか?
杉村:データ品質の標準化は、AI技術の信頼性を確保する上で極めて重要です。特に、国際的なデータの流通が増加する中で、この標準シリーズが実務的なガイドラインとして活用されることを期待しています。また、現在も新たな課題に対応するため、継続的な改訂作業を進めています。
5.4. ガバナンスに関する標準(ISO/IEC 38507)
前川:ガバナンスに関する標準について、特に日本からの提案の背景をお聞かせください。
杉村:ISO/IEC 38507は、組織におけるAIガバナンスについて定めた重要な標準です。特に興味深い点は、リスクの捉え方です。当初、国際会議では「リスク」を「期待からの乖離(deviation from the expectation)」と定義する際に、その乖離はネガティブなものしかないという考え方が強く主張されていました。
前川:その議論に対して、日本はどのような立場を取られたのでしょうか?
杉村:私たちは、AIのリスクはポジティブな側面も含めて考える必要があると主張しました。例えば、将棋のように非常にシンプルな世界では、AIが人間の予想を超える素晴らしい手を指すことがあります。また、マーケティングでは人間が考えなかったような革新的なプロモーション方法を提案することもあります。
前川:ポジティブな面も「リスク」として捉えるという考え方は、国際的にどのように受け止められましたか?
杉村:この提案には、情報セキュリティ大学院大学の原田先生や、高村先生、日本AI学会の小倉先生など、多くの有識者が関わり、説得力のある議論を展開しました。結果として、私たちの提案は受け入れられ、38507では両面からリスクを捉える approach が採用されました。
前川:それは大きな成果ですね。その後の影響はいかがでしょうか?
杉村:最近、NISTの方々が38507を参照して、AIリスクに関してポジティブとネガティブの両面があることを言及してくれました。これは非常に嬉しいことでした。このように、日本発の考え方が国際的な標準形成に影響を与えた好例となっています。ただし、ポジティブな面があるからといって単純に喜べばいいわけではありません。例えば、予想を超えるポジティブな結果が出ても、組織がそれに適切に対応できないとむしろ問題になる可能性もあります。そういった複雑な側面も含めて、包括的なガバナンスの枠組みを提供しているのが、この38507の特徴です。
6. 国際的な制度との関係
6.1. EU AI Act との関連性
杉村:EUのAI Actは、新しい規制の枠組みとして非常に重要な意味を持っています。特筆すべきは、これが単なるガイドラインではなく、レギュレーション(規則)として策定されていることです。つまり、EUの国々は一切の例外なくこれを導入しなければならない、非常に強い効力を持つ法的枠組みなのです。
前川:その規制の中で、特にハイリスクAIの定義と要求事項が重要になってくるわけですね。具体的にはどのような構造になっているのでしょうか?
杉村:はい。AI Actの構造は非常に明確です。まず、AIの利用において「絶対に禁止される用途」を明確に定義し、その次にハイリスクAIとして規制される領域を具体的な例示とともに規定しています。このハイリスクAIについては、第三者認証を受けることが必須となります。これを支えるのが、私たちが開発しているISO/IEC 42001などの国際標準なのです。
前川:そうすると、標準化活動と認証制度は密接に関連してくるわけですね。
杉村:その通りです。特に注目すべきは、AI Actのアーティクル40と41です。アーティクル40では、ハーモナイズドスタンダード(整合規格)の開発をスタンダードリクエストとして標準化機関に要請することが規定されています。しかし、アーティクル41では、もし標準化機関が適切な標準を開発できなかった場合、別の方法を採用する可能性も示唆されています。これは私たちの標準化活動に大きなプレッシャーを与えています。
CEN-CENELEC JTC21の議長であるセバスチャンと副議長のパトリックも、この点について非常に真剣に受け止めています。彼らは「私たちが適切な標準を開発できなければ、EUの法整備の中で私たちの標準が使われない可能性がある」と懸念を示しています。
前川:時間的な制約もある中で、かなり厳しい要求ですね。
杉村:はい。しかし、これはEUのニューレジスレイティブフレームワークの考え方に基づいています。つまり、法律では「何をしなければならないか」という要求事項を定め、「どのように実現するか」については標準で定めるという明確な役割分担があるのです。この考え方に基づいて、私たちは技術的な詳細を標準として開発していくことが求められています。
このように、EU AI Actは単なる規制以上の意味を持っており、国際標準化活動の方向性にも大きな影響を与えています。私たちはこの動きを注視しながら、実効性のある標準開発を進めていく必要があります。
6.2. NIST AIリスクマネジメントフレームワーク
杉村:NISTのAIリスクマネジメントフレームワークは、非常に実践的なアプローチを取っています。特徴的なのは、Plan-Do-Check-Actionのループを明確に組み込んでいる点です。このフレームワークは、私たち日本からも多くの貢献をさせていただきました。
前川:具体的にはどのような特徴があるのでしょうか?
杉村:NISTの素晴らしい点は、新しい文書を出す度に、関連する他の標準や文書との関係性を徹底的に分析することです。例えば、ISO/IEC 42001との関係性、日本の機械学習品質ガイドラインとの関係性など、クロスリファレンスを非常に早い段階で作成します。これは私たちも見習うべき点だと考えています。
前川:それは標準を実装する側にとっても有用ですね。実装面での具体的なガイダンスはどうなっていますか?
杉村:はい。NISTは最近、「AI RMF Playbook」という実装ガイダンス文書を公開しました。これには3つの重要な要素が含まれています。1つ目はモデルのテスト方法、2つ目はレッドチームテストと呼ばれる敵対的なテスト手法、そして3つ目がフィールドテスティングです。これらを組み合わせることで、AIシステムの信頼性を総合的に評価する枠組みを提供しています。
前川:その評価結果は、どのように活用されるのでしょうか?
杉村:実は、これがNISTアプローチの興味深い点なのです。単なる評価に留まらず、評価結果を組織のマネジメントシステムに組み込み、継続的な改善のサイクルを回すことを推奨しています。これは私たちがISO/IEC 42001で目指している方向性とも合致しており、両者は補完的な関係にあると言えます。
特に最近では「AI RMF 1.0」の公開後、その実装を支援するためのパイロット評価プログラムも開始されています。このように、理論的なフレームワークだけでなく、実践的な導入支援まで一貫して提供している点が、NISTの取り組みの大きな特徴と言えるでしょう。
6.3. 各国・地域の規制枠組みとの調整
杉村:最近のヨーロッパの動きとして注目すべきなのが、AI Trust Allianceです。これは2023年9月に公表予定の新しい枠組みで、EU AI Actが対象としないAI領域をカバーすることを目指しています。
前川:具体的にはどのような範囲をカバーするのでしょうか?
杉村:AI Trust Allianceは、製品、組織、プロセス、教育の3つの領域について民間認証を行うことを計画しています。特に、AI Actで規定されるハイリスクAI以外の領域を対象としているのが特徴です。ただし、これはまだ公表前の情報なので、詳細については慎重に見守る必要があります。
前川:認証制度については、各国でさまざまなアプローチがありそうですね。
杉村:はい。認証の方法としては大きく3つのアプローチがあります。1つ目は自己認証、2つ目はパートナーや調達者による第2者認証、そして3つ目が認定機関による第3者認証です。現在、ISO/IEC 42001が出版されたことで、特に民間企業からは自己認証や第2者認証の実施に関する問い合わせが増えています。
前川:各国固有の要求事項については、どのように対応していくのでしょうか?
杉村:これは非常に難しい課題です。例えば、マシナリーレギュレーション、AIライアビリティディレクティブ、データアクト、GDPRなど、特にヨーロッパには多くの規制が存在します。企業がヨーロッパで事業を展開する際は、これらすべてを考慮する必要があります。
ただし、私たちの役割は、あくまでも技術標準の開発に留まります。実際の認証・認定制度の運用は各国・地域の法制度に委ねられることになります。重要なのは、私たちが開発する標準が、これらの多様な要求事項に対応できる柔軟性を持っているかどうかだと考えています。
前川:そうですね。標準化活動と各国の制度との間で、適切なバランスを取ることが重要になってきますね。
杉村:その通りです。特に最近は、シンガポールのAI Verifyのように、AIシステムの評価に関する独自の枠組みを開発する国も出てきています。これらの動きに対しても、私たちの標準が有効に機能するよう、常に注意を払っていく必要があります。
7. 今後の課題と展望
7.1. 垂直標準化への対応
杉村:垂直標準化への対応は、今後のAI標準化において最も重要な課題の一つです。現在、私たちSC42は主に水平標準、つまり業界横断的な基本的な標準の開発を行っていますが、これだけでは不十分なんです。
前川:各産業分野での具体的な標準化ニーズがあるということですね。
杉村:その通りです。ただし、これは私たちSC42だけでは対応できない課題です。なぜなら、自動車、医療、金融、証券など、それぞれの分野に特有の専門知識が必要だからです。各業界の専門家の方々が、その分野特有の知見に基づいて標準化を進めていく必要があります。
前川:では、SC42はどのような役割を果たすことができるのでしょうか?
杉村:私たちの役割は、水平標準と垂直標準の整合性を確保することです。ただし、これが非常に難しい。実際、業界によって様々な反応があります。「AIの標準なんて聞きたくない。私たちが分かっているから自分たちでやる」という団体もあれば、「水平標準でどんな議論があったのか教えてほしい」という団体もあります。また、「標準化は難しいので、すぐには動けない」という反応もあります。
前川:そうした多様な反応に対して、どのように対応していくのでしょうか?
杉村:組織運営の面で、非常にバランス感覚が要求されます。特に現状では、医療分野をはじめ、様々な分野でAIの応用が広がりつつあります。この状況に対応するためには、垂直分野の専門家との議論を丁寧に進めていく必要があります。
例えば、医療分野では既にジョイントワーキンググループ3を設立し、元AI学会会長の妻木先生にコンビーナーを務めていただいています。このように、各分野の専門家との協力体制を構築しながら、段階的に垂直標準化を進めていくアプローチが重要だと考えています。
前川:結局のところ、水平と垂直の両方の視点を持ちながら、バランスを取っていく必要があるということですね。
杉村:はい。ただし、これは上意下達的な硬い組織運営では実現できません。様々な専門家に集まっていただき、プロジェクトとして柔軟に動いていく必要があります。私自身、かつては携帯電話の開発責任者として、トップダウンの組織運営に慣れていましたが、標準化活動では全く異なるアプローチが必要なんです。専門家の方々に教えていただきながら、合意形成を図っていく。そういった柔軟な運営が不可欠だと考えています。
7.2. 人間の不完全性を考慮したAI標準の在り方
杉村:先週開催された産総研のシンポジウムで、辻井先生をはじめとする複数の専門家から重要な指摘がありました。現在のAI標準は、人間を完璧な存在として想定している部分があるのではないか、という問題提起です。
前川:それは興味深い視点ですね。具体的にはどのような課題があるのでしょうか?
杉村:例えば、AIの監督(ヒューマンオーバーサイト)の問題です。AIが膨大な量のデータを基に、人間では追いつけないような瞬時の判断を行った場合、それを人間がどのように監督できるのか。これは本質的な課題です。現在の標準では、最終的に人間が責任を持つ形を想定していますが、実際にそれが可能なのかという問題があります。
前川:人間の限界を認識した上で、どのように対応していくべきなのでしょうか?
杉村:三菱総研の江川さんを中心に、この課題に取り組んでいます。重要なのは、個人としての人間ではなく、チームとしての判断プロセスを考えることです。人間は間違いを犯すし、勘違いもします。そういった人間の不完全性を前提としたAIの利用を考えていく必要があります。
前川:標準化の文脈でそれを議論することは難しそうですね。
杉村:その通りです。人間の不完全さを技術的に議論する場を作ることは非常に困難です。標準化の議論では、どうしても「人間ができているはず」という前提に傾きがちです。しかし、この認識を改める必要があります。
例えば、AIが提示した判断に対して、個人ではなくチームで検証するプロセスを設計する。または、人間の判断の限界を認識した上で、AIとの相互補完的な関係を構築する。こういった新しいアプローチを標準の中に組み込んでいく必要があります。これは今後の大きな課題として認識しています。
前川:そうした観点は、既存の標準にも影響を与える可能性がありますね。
杉村:はい。特にISO/IEC 42001のようなマネジメントシステム標準では、人間の不完全性を考慮した新しい考え方を導入する必要があるかもしれません。これは単なる技術的な問題ではなく、AIと人間の関係性を根本的に問い直す課題だと考えています。
7.3. コンテキストに応じた標準化の必要性
杉村:AIの利用コンテキスト、つまり利用される文脈を考慮することは、標準化において非常に難しい課題になっています。この問題は、AI機能を提供する企業と利用する企業の間で、異なる動機が存在することから生じています。
前川:具体的にはどのような対立があるのでしょうか?
杉村:AI機能を提供する企業は、できるだけ地域差や業界差に影響されない共通部分を大きくしたいという動機を持っています。これは事業効率の観点から当然の要求です。一方で、アプリケーションを提供する企業は、「何でもできる」とは言いたくない。むしろ、「このような条件下でのみ使用してください」と事前に利用条件を明確にしたいという要求があります。
前川:その対立をどのように解決していくべきなのでしょうか?
杉村:両者の動機は、ビジネスの観点からはどちらも理解できるものです。ただし、この対立は単純な妥協では解決できません。むしろ、文化的・社会的な背景も含めて、より広い文脈で考える必要があります。
例えば、ヨーロッパではAIの擬人化に対して強い嫌悪感を持つ専門家が多くいます。これは文化的な背景に基づく反応です。一方、日本ではヒューマン・マシン・インタラクションについて比較的オープンに議論できる環境があります。このような文化的な違いも、標準化において考慮すべき重要な要素となります。
前川:そうなると、標準化自体もより柔軟な形を取る必要がありそうですね。
杉村:その通りです。私たちが現在取り組んでいるのは、コアとなる要求事項は共通化しつつ、実装や運用の面では各地域や業界の特性に応じた柔軟な適用を可能にする、というアプローチです。これは特に医療分野のAI応用などで重要になってきています。
また、コンテキストの問題は単に技術的な話だけではありません。例えば、AIの監督(オーバーサイト)の方法一つとっても、組織の規模や文化によって最適な方法は異なってきます。そのため、標準化においても、画一的なルールを押し付けるのではなく、各組織が自らのコンテキストに応じて適切な実装方法を選択できるような枠組みを提供することが重要だと考えています。
7.4. 若手人材の育成と国際協力の推進
杉村:私はAIと同い年で、第2次AIブームの冬の時代も経験してきました。そのため、標準化活動に関わるメンバーの多くが私と同様にシニアな世代になっているという課題を強く認識しています。
前川:AIの分野は今、大きな転換期にありますよね。若手の育成についてはどのような取り組みを考えていますか?
杉村:はい。特に経済産業省やMETI、計算書の方々から、若手人材の育成について強い要請をいただいています。実際、SC42の国内委員会は現在50名を超える規模になっていますが、より多くの若手専門家の参加が必要です。
前川:国際会議への参加機会はどうなっていますか?
杉村:幸いなことに、関係省庁や団体から渡航費用などの支援をいただいています。私自身も年間7、8回は海外に出張していますが、より重要なのは、次世代を担う若手専門家に国際会議での経験を積んでもらうことです。人工知能学会の全国大会を見ていても、非常に優秀な若手研究者が多くいらっしゃいます。
前川:具体的な支援制度はありますか?
杉村:はい。産総研、IPA(情報処理推進機構)、そしてAIセーフティインスティテュートなどと協力して、若手の育成支援を進めています。特にIPAのAIセーフティインスティテュートは、AIガバナンスの分野で広い視野を持った人材育成に取り組んでおり、私たちの活動にとって心強い存在です。
また、国際標準化活動では、バイラテラル(二国間)の会議も増えています。特に日本は非ネイティブということもあり、対面での議論が重要です。誤解を避け、より深い相互理解を得るためにも、若手がこうした国際的な場で経験を積むことが不可欠だと考えています。
前川:世代交代を円滑に進めていくには、時間がかかりそうですね。
杉村:はい。しかし、これは避けて通れない課題です。第2次AIブームの冬の時代を経験した世代から、現在のAIブームを牽引する若い世代へと、知見と経験を確実に引き継いでいく必要があります。幸い、現在のAIは着実に事業化も進んでおり、若い人材がキャリアを築きやすい環境が整ってきています。これは第2次AIブームの時代とは大きく異なる点です。
8. 実務的な知見
8.1. AI標準の実務での活用方法
前川:企業がAI標準を実務で活用する際に、どのような標準から始めるべきでしょうか?
杉村:企業の方々には、まずISO/IEC 22989から始めることをお勧めしています。これはAIの用語と概念を定義した標準で、無料でダウンロードすることができます。この標準を無料公開にした理由は、世界中の企業や組織に広く使っていただきたいという願いからです。
前川:具体的な実装段階ではどのような点に注意が必要でしょうか?
杉村:実装段階では、ISO/IEC 42001のマネジメントシステム標準が重要になってきます。このマネジメント標準は、ISO 9000シリーズのような既存の標準をベースに、AIに特有の要求事項を追加する形で構成されています。企業の方々にとって、既存のマネジメントシステムの経験を活かしやすい構造になっています。
前川:データ品質の観点からはどのような標準が参考になりますか?
杉村:データ品質については、ISO/IEC 5259シリーズを参照することをお勧めします。これは日本が主導して開発した標準で、特にデータフリーフロートラストの考え方を実現するための具体的な方法論を提供しています。また、実際のユースケースについては、ISO/IEC 24030を参照すると良いでしょう。これも日本が開発をリードした標準で、定期的に改訂を重ねています。
前川:標準を効果的に導入するためのアプローチについて、アドバイスはありますか?
杉村:はい。重要なのは、すべての標準を一度に導入しようとせず、段階的なアプローチを取ることです。まず用語の標準から始めて、組織内での共通理解を形成します。その後、マネジメントシステム標準を参照しながら、組織としての体制を整備していく。そして必要に応じて、データ品質やガバナンスの標準を導入していく。このような段階的なアプローチが、実務では最も効果的だと考えています。
また、標準を導入する際は、組織の規模や事業の特性に応じて、適切なカスタマイズを行うことも重要です。標準はあくまでもガイドラインであり、各組織の実情に合わせて柔軟に適用することが求められます。
8.2. 企業における標準化対応の現状
前川:企業の標準化活動への参加状況はどのように変化していますか?
杉村:企業の参加は着実に増加しています。SC42の国内委員会には現在50名を超える専門家が参加していますが、その多くが企業からの参加者です。特徴的なのは、単なるオブザーバーとしてではなく、非常に積極的な参加が増えていることです。中には複数の専門家を派遣している企業もあります。
前川:企業内での体制整備はどのように進んでいるのでしょうか?
杉村:これは企業によって様々です。しかし、ISO/IEC 42001のようなマネジメントシステム標準が出版されたことで、特に大手企業を中心に、標準化対応のための社内体制整備が加速しています。一方で、まだ検討段階の企業も多く、社内でどのように体制を構築すべきか、相談を受けることも増えています。
前川:課題や解決策についてはいかがでしょうか?
杉村:主な課題の一つは、標準化活動に対する経営層の理解をどう得るかという点です。特に日本企業の場合、標準化活動を投資として捉えるか、コストとして捉えるかで大きく対応が分かれます。
ただし、最近は総務省の統計でも示されているように、AI関連の事業が着実に成長を続けており、これは第2次AIブームの時代とは大きく異なります。当時は技術を身につけても事業化に結びつかないケースが多く、私自身も24人いた部下が突然0になるという経験をしました。しかし現在は、AIへの投資が実際の事業成長につながっているという実感があります。
このような背景から、標準化活動への参加を戦略的な投資として位置づける企業が増えてきています。また、国際標準化活動を通じて得られる最新の知見や人的ネットワークの価値も、企業内で認識され始めています。
前川:具体的な解決策として、どのようなアプローチを推奨されていますか?
杉村:私たちは、段階的なアプローチを推奨しています。まずは既に公開されている標準、特に無料でアクセス可能なISO/IEC 22989などから始めて、組織内での理解を醸成していく。その上で、必要に応じて標準化活動への直接参加を検討する。このような段階的なアプローチが、多くの企業にとって現実的な解決策になると考えています。
また、IPAのAIセーフティインスティテュートのような支援機関の活用も推奨しています。彼らは広い視野でAIガバナンスを捉え、企業の標準化活動を支援する体制を整えつつあります。
8.3. 認証・認定制度の展望
前川:私は以前、英国規格BS7799が情報セキュリティマネジメントシステムの国際規格ISO/IEC 27001になっていく過程に関わりました。AI標準の認証制度も同様の道を辿るのでしょうか?
杉村:認証・認定については、大きく3つのアプローチが考えられます。第一に自己認証、第二にパートナーや調達者による第2者認証、そして第三に認定機関による第3者認証です。現在、ISO/IEC 42001の出版後、特に民間企業から自己認証と第2者認証に関する問い合わせが増えています。
前川:EU AI Actでは第三者認証が必須になりそうですね。
杉村:はい。EU AI Actでは、特にハイリスクAIについて第三者認証が要求されることになります。これに対応するため、欧州ではすでに認証機関(Notified Body)の整備が始まっています。しかし、重要なのは、これはEUの規制の枠組みの中での話であって、グローバルな認証制度としてはまだ発展途上だということです。
前川:自己適合宣言の役割についてはどうお考えですか?
杉村:興味深いことに、ISO/IEC 42001が出版された直後から、自己適合宣言に関する問い合わせが多く寄せられています。これはビジネスの即効性という観点から理解できます。セバスチャン(CEN-CENELEC JTC 21の議長)も「まずは使ってもらうことが重要。第一者認証でも第二者認証でも、とにかく使ってもらわないと前に進まない」と言っています。
前川:国際的な認証制度の展開については?
杉村:現状では、各国・地域で異なるアプローチが取られる可能性が高いと考えています。例えば、シンガポールのAI Verifyのような独自の評価フレームワークを開発する国もあれば、EUのような法的拘束力のある認証制度を採用する地域もあります。私たちの役割は、これらの多様なアプローチに対応できる柔軟な標準を開発することです。
また、認証制度の運用にあたっては、政府が関係する認定制度から、業界団体による認証、さらには企業間の相互認証まで、様々なレベルでの展開が考えられます。重要なのは、これらの制度が国際的な整合性を保ちながら、各地域の要求事項にも対応できる柔軟性を持つことです。