※本レポートは、2024年3月28日に開催されたGLOCOM六本木会議オンライン#77「英国におけるデジタルヘルスとAI活用」の内容を基に作成されています。本セッションはZoomウェビナーとして、約100名のリモート参加者にライブ配信されました。レポートの内容は、主に遊間和子氏の発表内容を要約・整理したものであり、可能な限り正確な情報伝達を心がけておりますが、解釈や要約による誤りがある可能性もございます。より詳細な情報については、GLOCOM六本木会議のウェブサイト(https://roppongi-kaigi.org/ )をご参照ください。
<登壇者プロフィール>
遊間和子氏(株式会社国際社会経済研究所 調査研究部 主幹研究員/GLOCOM客員研究員) 高齢化とICT、デジタルヘルス、情報アクセシビリティなどの情報社会を取り巻く課題に関する調査研究活動に従事。経済産業省「産業構造審議会 保安・消費生活用製品安全分科会 製品安全小委員会」委員、(国研)科学技術振興機構/社会技術研究開発センター「社会的孤立・孤独の予防と多様な社会的ネットワークの構築」プログラムアドバイザー等を務める。主な共著書に「デジタルヘルスケア」(創元社)がある。
前川徹氏(東京通信大学 情報マネジメント学部 教授/GLOCOM主幹研究員) 1978年通商産業省入省。機械情報産業局情報政策企画室長、JETRO NYセンター産業用電子機器部長等を歴任。2018年4月より現職。一般社団法人コンピュータソフトウェア協会専務理事、国際大学GLOCOM所長等を兼務。モデレーターとして本セッションの進行を務めた。
進行:小林奈穂氏(GLOCOM六本木会議 事務局/国際大学GLOCOM 主幹研究員/研究プロデューサー)
1. 英国の医療システムの概要
1.1. NHSの基本構造と特徴
英国は日本と比較すると国土面積は約2/3程度で、人口は約6,700万人と日本の半分程度の規模ですが、ヨーロッパの中では比較的大きな国の一つです。2020年12月末でEUから完全に離脱しましたが、英国-EU間の通商協力協定(TCA)が結ばれており、EUとの調和(ハーモナイゼーション)を維持しながら、独自性を打ち出す方向で医療制度を展開しています。
医療提供体制の特徴として、NHS(National Health Service)による無料の医療サービスが基本となっています。NHSはイングランドとスコットランドで分かれており、本報告ではイングランドNHSについて主に説明します。これは両者で取り扱いが異なるためです。
医療と介護の役割分担については、医療はNHS、介護(社会的ケアを含む)は自治体が担当する形で運営されてきました。しかし現在は、「統合ケア」という考え方のもと、より密接な形でケアを進める方向に移行しています。これは日本における地域包括ケアシステムと同様の発想で、地域の中で医療・介護・社会福祉を一体的に運用することを目指しています。
NHSは「ゆりかごから墓場まで」という理念のもと、手厚い医療を特徴としていましたが、財政的制約や人材不足により、サービスが徐々に手薄になってきている現状があります。例えば、入院待ちが2ヶ月に及ぶなどの問題も発生しています。このような課題に対応するため、NHSの改革は英国政府の長年の課題となっており、政権交代のたびに新しい法律や政策が打ち出され、様々な試みが行われてきました。
1.2. 2022年ヘルスケアアクト法による組織改革
2022年に成立したヘルスケアアクト法により、NHSの組織構造に大きな変革がもたらされました。この法改正における最も重要な変更点は、従来のコミッショニング方式の廃止です。これまでCCG(Clinical Commissioning Group)が、どのような治療やケアにNHSが支払いを行うかを決定し、資金を分配する役割を担っていました。
また、デジタル分野においても大きな組織改革が実施されました。NHSデジタルという組織は、従来、重要な医療ITインフラの管理や、医療・社会ケアサービスで生成されたデータの収集・分析・配布を担当してきました。この組織改革により、NHSデジタルはNHSイングランド本体に吸収合併されることになりました。
この法改正によって、医療と介護のサービス提供に関する権限と責任が明確化されました。特に、デジタルヘルスの分野においては、これまで複数の組織に分散していた権限が一元化され、より効率的な意思決定が可能になりました。
法改正の重要な点として、医療と介護の連携強化があります。これまでは医療はNHS、介護は自治体という形で分断されていた体制を、より統合的なアプローチへと転換する法的基盤が整備されました。この改革により、患者へのケアの質の向上と、システム全体の効率化が期待されています。
この組織改革は、後述する統合ケアシステム(ICS)の導入とも密接に関連しており、より効果的な医療・介護サービスの提供を目指す包括的な改革の一環として位置づけられています。
1.3. 統合ケアシステム(ICS)の導入
2022年のヘルスケアアクト法により、イングランド全土に42の統合ケアシステム(ICS)が構築されることになりました。このシステムは二重の組織構造を持っており、上位に統合ケアパートナーシップ(ICP)、その下に統合ケアボード(ICB)を配置する形で設計されています。
ICPはNHSの組織と地方議会によって構成されており、地域全体の医療・介護の方針決定を担います。その下のICBは地域のNHS組織として実務を執行します。この二重構造の特徴は、意思決定機関に地方議会を参画させることで、統合ケアに法的な権限と責任を持たせ、より実効性の高い運営を可能にした点です。
この新しいシステムの導入背景には、従来の医療と介護の分断による非効率性の解消があります。例えば、精神疾患を抱える患者が在宅や近隣のクリニックで治療を受けていても、状態が悪化すると入院が必要になります。その後、状態が改善しても地域での受け入れ態勢が整っていないために入院が長期化するという問題が発生していました。また、入退院を繰り返す患者のケアの連続性が保たれないという課題もありました。
統合ケアの考え方自体は以前から存在していましたが、権限や予算が明確でなかったため、効果的な運用が難しい状況でした。今回の法改正により、法的な裏付けを持った形で統合ケアを推進できるようになり、より個別化されたケアの提供と財政的なメリットの両立が期待されています。この改革は、医療と介護の効率的な連携を実現するための英国政府の強い決意を示すものと言えます。
2. NHSのデジタル化戦略
2.1. NHS長期計画(2019年)の5つの重点項目
2019年に発表されたNHSの長期計画では、今後5年間のNHSの運営方針として、5つの重要な変更点が示されました。
第一の重点項目は、入院に依存しない在宅ケアの強化です。これは、地域のGP(General Practitioner:かかりつけ医)での診療を中心に、プライマリーケアと地域医療サービスをより充実させることを目指しています。入院を前提とした医療から、可能な限り自宅や地域での医療・ケアを提供する体制への転換を図ることで、医療資源の効率的な活用を実現しようとしています。
第二の重点項目は、救急医療サービスの負担軽減です。英国の救急医療サービスは、日本に比べて利用のハードルが高く、また運営にも多額のコストがかかっています。この負担を軽減するための取り組みを進めることで、救急医療の持続可能性を確保することを目指しています。
第三の重点項目として、より個別化されたパーソナライズド医療の提供を掲げています。患者一人一人の状態や需要に応じて、きめ細かい医療サービスを提供することを目標としています。
第四の重点項目は、デジタル対応のプライマリーケアと外来ケアをNHS全体で拡充することです。これは特に重要な点で、デジタル技術を部分的に導入するのではなく、医療サービス提供の主流として位置づけることを明確に示しています。
最後の重点項目は、医療費の支払い方式の変更です。これは先述した統合ケアシステム(ICS)の導入と密接に関連しており、医療と介護が分断されていた状況を改善し、より密接な連携を可能にする財政的な基盤を整備することを目指しています。
これらの5つの重点項目は相互に関連しており、デジタル技術を活用することで、より効率的で質の高い医療サービスの提供を実現しようとする包括的な戦略となっています。
2.2. デジタル組織の統合(NHS Digital、NHS X)
デジタル化の推進にあたり、NHSの組織体制にも大きな変革がありました。これは、政府のデジタル部門顧問であり、NHSデジタルの暫定CEOも務めたローラ・ウェイド氏による独立レポート「データ・デジタル・テクノロジーをNHS改革の中心に置く」の提言を受けたものです。
このレポートでは、NHS内の複数のデジタル関連組織(NHSイングランド、NHSインプルーブメント、NHS X、NHSデジタル)が並立している状況が、医療システムのデジタル化に対する効率的な対応の妨げになっていると指摘されました。この課題に対応するため、段階的な組織統合が実施されることになりました。
まず2022年2月には、NHS XがNHSイングランドの一部局に統合されました。続いて2023年2月には、NHSデジタルもNHSイングランド本体に統合されました。これにより、NHSイングランドがデジタル化におけるリーダーシップを発揮しやすい体制が整いました。
この組織統合の目的は、デジタル化に関する意思決定の一元化と効率化にあります。以前は各組織が独自の判断で施策を進めていましたが、統合後は一つの組織としてより戦略的な取り組みが可能になりました。これは後述するAI活用やデータ利活用の推進においても、重要な組織基盤となっています。
私が注目しているのは、この組織改革が単なる統合にとどまらず、デジタルトランスフォーメーションを推進する体制づくりとして位置づけられている点です。今後、医療分野でのデジタル化やAI活用が加速することが期待されます。
2.3. デジタルインフラの整備状況
NHSのデジタルインフラ整備において、3つの重要な基盤システムが構築されています。
まず、NHSメールサービスは、NHS関係者専用の電子メールシステムです。このサービスは、メールアドレスの@マーク以降が「nhs」で終わる形式を採用しており、現在170万人を超える医療専門家とスタッフが利用しています。医療分野では機密性の高い情報のやり取りが頻繁に発生するため、高度なセキュリティを確保したメールシステムの整備は不可欠でした。
次に、ヘルス&ソーシャルケアネットワーク(HSCN)は、医療関係者専用の高セキュリティネットワークとして構築されています。このネットワークは英国政府のパブリッククラウドとも接続されており、医療従事者が安全に情報をやり取りできる環境を提供しています。
さらに、これらの様々なアプリケーションを効率的に連携させるため、「情報共有スパイン」と呼ばれるシステムを導入しています。スパイン(背骨)という名称の通り、このシステムは医療ITシステムを統合する中核的な役割を果たしています。現在、2万6,000の組織の4万4,000を超える医療ITシステムが、このスパインを通じて統合されています。
このスパインには、電子処方箋サービス、要約医療記録(SCR)の共有システム、医療機関間の紹介システムなど、様々なサービスが接続されています。特に、英国では患者が必ずかかりつけ医を経由して専門医による治療を受ける仕組みとなっているため、これらのシステム統合は医療サービスの効率的な提供に大きく貢献しています。
また、英国特有の仕組みとして、医療の質と費用対効果を評価する国立医療研究評価機構(NICE)のガイドラインシステムも、このデジタルインフラと連携しています。NICEのガイドラインに記載されていない治療法については、NHSから費用が支払われないという仕組みにより、適切な医療費の使用を管理しています。
これらのデジタルインフラの整備により、医療情報の安全な共有と効率的な医療サービスの提供が実現されています。
3. 医療データ管理システム
3.1. NHS番号による個人識別
英国のデジタルヘルスケアの基盤として、NHS番号という個人識別システムが重要な役割を果たしています。この番号は、3-3-4の形式で表示される10桁の数字で構成された、患者固有の識別番号です。
英国は、スウェーデンやフィンランドのような、1つの番号で全ての分野をカバーする方式は採用していません。その代わり、分野ごとに別々の番号を振る「セパレート方式」を採用しており、NHS番号はヘルスケア領域専用の識別番号として機能しています。
以前は、紙の処方箋や検査結果などに記載されてはいたものの、その活用は限定的でした。実際、多くの国民にとってNHS番号は認知度が低く、番号を聞かれても即答できない状況でした。しかし、数年前に国がデジタルヘルスケア分野においてNHS番号を積極的に活用する方針を打ち出したことで、その利用が拡大しています。
特筆すべき点として、NHS番号は他の識別番号との連携も可能な設計になっています。例えば、児童虐待のケースでは、病院での治療記録と政府が保有する養育歴などの情報を突き合わせて分析する必要があります。このような場合、NHS番号を介して他の識別番号に紐付いている情報と連携することが可能です。ただし、この連携は無制限に認められているわけではなく、児童虐待対策など、明確な目的がある場合に限って許可されています。
このように、NHS番号は単なる識別番号としてだけでなく、医療情報の効率的な管理と必要に応じた他分野との連携を可能にする重要なインフラとして機能しています。
3.2. 要約医療記録(SCR)の共有システム
要約医療記録(Summary Care Record: SCR)は、英国のかかりつけ医制度を支える重要な情報共有システムです。英国では患者は必ず最初にかかりつけ医を受診し、必要に応じて専門医に紹介される仕組みを取っています。SCRは、この診療体制を効率的に運用するために開発された医療情報共有の仕組みです。
現在、かかりつけ医の98%がこのシステムを利用しています。かかりつけ医は、日常の診療で使用する業務システムから情報を入力しますが、患者の同意を得た上で、自動的にサマリーが作成されNHSに送信される仕組みになっています。
共有される情報の範囲は、NHS番号、氏名、住所、生年月日といった基本情報に加えて、重大な病歴、投薬情報、そして症状の管理に必要な情報が含まれます。特筆すべき点として、終末期ケアに関する情報も共有可能です。例えば、私が別の研究で取り組んでいる分野ですが、救急医療を受けた際に蘇生処置を望まないといった患者の希望なども、このシステムを通じて医療従事者間で共有することができます。
これらの機密性の高い情報を安全に取り扱うため、厳格なアクセスコントロールが実装されています。医療従事者は、NHSから配布されるICチップ付きスマートカードを使用して、システムにアクセスします。このスマートカードによる個人認証と、患者側のNHS番号による個人識別の組み合わせにより、セキュアな情報共有を実現しています。
このように、SCRは単なる情報共有システムではなく、患者の意思を尊重しながら、必要な医療情報を適切に共有するための包括的な仕組みとして機能しています。
3.3. 地域間データ連携の仕組み
英国では、全国レベルでのNHSによる大規模な医療情報システムに加えて、地域や目的別に独自の情報ネットワークが構築されています。例えば、ロンドン地域では終末期医療の情報をやり取りするための「ユニバーサルケアプラン(UCP)」という独自の医療情報ネットワークを運用しています。このように地域ごとに最適化された情報システムを持つことで、地域特有のニーズに対応することが可能になっています。
しかし、地域別のシステムは、地域を越えた医療サービスの提供時に課題となることがあります。例えば、ロンドンの患者がリーズで倒れた場合、その患者の医療情報にアクセスできないという問題が発生する可能性がありました。
この課題に対応するため、「ナショナルレコードロケーター」という仕組みが導入されました。このシステムでは、異なる地域の医療ネットワーク間で相互に情報共有の許可を設定することができます。例えば、ロンドンの医療ネットワークとリーズの医療ネットワークが相互に許可を行うことで、ロンドンで救急出動した医療従事者が、リーズで記録された患者の医療情報にアクセスすることが可能になります。
このような地域間連携においても、患者のプライバシー保護は重要な要素です。各地域のネットワークは独自のセキュリティポリシーを持っていますが、ナショナルレコードロケーターを通じた情報共有の際には、共通の同意管理の仕組みが適用されます。これにより、患者の意思を尊重しながら、必要な医療情報を適切に共有することが可能になっています。
このように、地域の独自性を活かしながら全国レベルでの情報連携を実現する英国の取り組みは、大規模な医療情報システムを構築する上で参考になる事例だと考えています。
4. AI活用の取り組み
4.1. 国家AI戦略の概要
英国は2021年9月に国家AI戦略を発表し、10年計画としてAIによる国の競争力向上を目指す方針を明確に打ち出しました。この戦略の中核となるのが、「責任ある信頼できるAI(Responsible and trustworthy AI)」という概念です。
特筆すべき点は、EUとは異なるアプローチを採用していることです。EUが最近AI規制法を議会で可決し、規制を強化する方向に動いているのに対し、英国はAIの活性化を優先する方針を選択しました。具体的には、規制を前面に出すのではなく、国際標準の獲得を通じてAI開発の主導権を確保しようとしています。
この方針を具体化するため、AIスタンダードハブを設立し、技術的な観点からAIの優位性を確保することに重点を置いています。私の観察では、この取り組みは英国のAI政策の特徴的な点であり、技術開発の促進と信頼性の確保を両立させようとする試みと言えます。
また、EUを離脱した英国ならではの戦略として、より柔軟な規制環境を整備することで、AIの研究開発とイノベーションを促進しようとしています。ただし、これは規制の緩和を意味するのではなく、ガイドラインによるソフトな方向づけを通じて、AIの健全な発展を支援する姿勢を示しています。
この戦略に基づき、後述するNHS AIラボの設立やAIアワードの実施など、具体的な施策が展開されています。特にヘルスケア分野では、この国家戦略を踏まえた独自のAI戦略の策定も進められており、医療・介護分野での実践的な活用に向けた取り組みが加速しています。
4.2. NHSのAIラボの設立と役割
2019年、保健社会福祉省はヘルスケア分野における安全で倫理的、かつ効果的なAI技術の開発促進のため、2億5000万ポンド(私が最近イギリスに出張した際のレートで約700億円)という大規模な投資を決定しました。この投資を基に、NHSのもとにNHS AIラボが設立されました。
NHS AIラボの特徴は、政府、医療・ケアの提供者、学術機関、テクノロジー企業が一堂に会する場として機能している点です。単なる研究開発機関ではなく、医療とケアのためのAI開発に関わる多様なステークホルダーが協働できる場として設計されています。
AIラボの活動は治療への直接的な応用だけでなく、人口減少に伴う医療スタッフ不足への対応など、医療システム全体の効率化にも焦点を当てています。現在、国家AI戦略に沿ったヘルスケア分野独自のAI戦略を策定中で、これにより2030年までの医療および社会福祉分野におけるAI活用の方向性が定められることになっています。
私が注目しているのは、AIラボが単なる技術開発の場ではなく、実装までを見据えた包括的な支援体制を構築している点です。例えば、後述するAIアワードによる開発支援や、NICE(国立医療研究評価機構)のガイドラインに組み込むためのエビデンス構築支援なども、AIラボの重要な機能の一つとなっています。
このように、NHS AIラボは技術開発、人材育成、制度設計、実装支援までを一貫して行う総合的なプラットフォームとして機能しており、英国のヘルスケアAI開発の中核的な役割を担っています。
4.3. AIアワードによる開発支援制度
英国のヘルスケア分野におけるAI活性化の中核的な取り組みとして、AIアワードという支援制度を運営しています。この制度の特徴は、単なる資金提供にとどまらない、きめ細かい伴走型の支援を提供している点です。
支援は4つのフェーズに分けて実施されています。フェーズ1と2は、まだ商業化前または市場の承認を受けていないアイデアレベルの技術を対象とし、製品開発を加速させることを目的としています。フェーズ3では、実際の医療現場でテストを行い、技術の有効性とエビデンスを確立することを支援します。フェーズ4では、製品として実用化・展開していくための支援を行います。
特に重要なのは、NICEのガイドラインへの掲載に必要なエビデンス収集への支援です。英国では、NICEのガイドラインに記載されていない治療法はNHSからの支払い対象とならないため、このエビデンス構築は実用化への重要なステップとなります。AIアワードでは、NHS内の様々な部門の協力を得てエビデンス収集を支援することで、この障壁を乗り越える手助けをしています。
すでに3ラウンドが実施され、第1ラウンドでは42件の受賞者が選ばれました。その後、ラウンドを重ねるごとに選定数は絞られていますが、各受賞者に対する支援の質は維持されています。
また、透明性の確保も重視されており、AIアワードで受賞した企業の技術がどのNHS施設で導入されているかを、GISマップ上で可視化するシステムを構築しています。例えば、オックスフォード大学病院でどのようなAI技術が導入されているかを、誰でも簡単に確認することができます。
このように、アイデア段階から実装まで一貫した支援を提供し、さらに透明性も確保するという包括的なアプローチにより、AIの医療分野への導入を促進しています。私は、この伴走型支援の仕組みが、日本のヘルスケアAI開発においても参考になると考えています。
5. データの利活用とプライバシー保護
5.1. GPデータ利活用イニシアチブ
GPデータの利活用に関して、英国ではパンデミック対応を契機とした重要な取り組みを行っています。新型コロナウイルスのパンデミック時に、より多くの情報を収集し、迅速な分析と政策への反映が必要となったことから、「新型コロナウイルス感染症公衆衛生指針」を法的根拠として、データ収集が行われました。
この経験を踏まえ、より効率的なデータ収集を可能にするための「計画及び研究のためのGPデータに関するイニシアティブ」が発表されました。このイニシアティブでは、かかりつけ医から収集される患者の医療記録について、構造化されたデータの形で収集を行います。具体的には、健康データ、民族性、性的指向などの情報が含まれますが、名前や住所といった直接個人を特定できる情報は仮名化された状態で保存されます。
法的根拠としては、2012年のヘルス&ケアアクトに基づき、NHSデジタル(現在はNHSイングランドに統合)がデータを収集・分析する権限を有しています。また、ヘルス&ソーシャルケアインフォメーションセンターに関する法律も、データ収集の法的基盤となっています。
特筆すべき点として、NHSデジタルは法的に正当な理由がある場合、患者の再識別が可能な状態でデータを保管することができます。これは、UK GDPR(英国の個人情報保護法)において、このヘルス&ケアアクト2012に基づくデータ収集に関しては、一般的な個人データの取り扱いに関する制限の適用除外とされているためです。
このように、英国ではパンデミック対応の経験を活かしながら、プライバシー保護と医療の質の向上の両立を目指したデータ利活用の取り組みを進めています。
5.2. データオプトアウトプログラム
データの利活用を推進するだけでは国民の理解は得られないという認識のもと、英国ではデータオプトアウトプログラムを導入しています。このプログラムにより、研究などの目的で自分のデータを使用されることを望まない患者は、オプトアウトを選択することができます。
オプトアウトの仕組みはオンラインサービスとして提供されており、患者は自身のNHS番号を使用してウェブサイトにログインし、データ利用の可否を選択することができます。ただし、このサービスを利用できるのは13歳以上の患者に限定されており、さらに電子メールまたは携帯電話へのアクセスが可能で、NHS番号と郵便番号をかかりつけ医に登録済みであることが条件となっています。
透明性確保の取り組みとして、オプトアウトの状況は定期的に公開されています。最新の2023年7月1日時点のデータによると、オプトアウト通知は3,341,796件で、GPに登録されている人口に対して5.34%となっています。特筆すべきは、オプトアウト率が0.1%を超えて変化した場合、定期的な公開に加えて臨時の情報公開も行われる点です。
この仕組みの重要性は、日本での経験からも明らかです。以前、JR東日本でデータ利用に関する問題が発生した際、オプトアウトを導入するとみんながオプトアウトしてしまうのではないかという懸念がありました。しかし、英国の事例では、透明性の確保や明確なコミュニケーション、法的根拠の明示などにより、オプトアウト率を5%程度に抑えることができています。
データの統計的な価値を保つためには、過度のオプトアウトは避けなければなりません。英国の事例は、透明性の高い運用と積極的なコミュニケーションにより、データの利活用と市民の信頼確保の両立が可能であることを示しています。
5.3. 民間企業とのデータ共有の仕組み
民間企業とのデータ共有について、英国では厳格な管理体制のもとで実施されています。GPデータの利用に関しては、企業が直接アクセスすることはできず、NHSトラストなどのNHS医療機関と契約を結び、共同研究という形で使用することが求められています。
この仕組みの実例として、2015年頃にGoogleの子会社DeepMindがNHSのデータを活用した研究を発表しましたが、これはロイヤルフリーロンドン病院との共同研究契約を通じて実現したものでした。ただし、このケースではデータ利用方法がデータ保護法に違反していた可能性があるとして、現在訴訟問題に発展していると聞いています。
製品開発などの商業目的でのデータ利用については、日本と同様に原則として本人同意が必要となります。そのため、多くの企業は大学病院などと個別に連携し、同意を得た上でデータを収集して研究を行うケースが多いようです。
一方、UK Biobankは世界最大規模のバイオバンクとして、商業利用も可能な形でデータを提供しています。実際、多くの民間企業にとって、NHSのデータよりもUK Biobankのデータの方が使いやすいという声も聞かれます。UK Biobankはチャリティ団体として運営されていますが、政府やNHSからも補助金を受けており、公的機関と民間の橋渡し的な役割を果たしています。
このように、英国では複数の経路を通じて民間企業によるデータ活用を可能にしていますが、同時に厳格な管理体制により、データの適切な利用を確保しています。私は、この balanced approach(バランスの取れたアプローチ)が、イノベーションの促進とプライバシー保護の両立において重要な示唆を与えていると考えています。
6. 実例と成果
6.1. ブレインマインズ社の画像診断AI
AIアワードの具体的な成果事例として、ブレインマインズ社の取り組みを紹介したいと思います。この企業はオックスフォード大学からスピンアウトして設立された会社で、AIを活用した医療画像診断支援システムを開発しています。
彼らのシステムは、最先端のAIアルゴリズムを使用して脳のスキャンデータを分析し、脳卒中の治療判断を支援する技術を提供しています。AIアワードによる支援を受けたことで、すでに22のNHS施設での試験導入が実現しています。これらの導入状況は、先述したAIマップ上で誰でも確認することができます。
特筆すべき点として、この技術はすでに製品化の段階に入っており、EU医療機器認証とFDA承認の両方を取得しています。これは、英国のAI開発支援制度が、研究段階から実用化までを見据えた包括的な支援を提供していることの成果と言えます。
私がオックスフォードでヒアリングを行った際に感じたのは、このような成功事例が生まれる背景には、AIアワードによる支援制度の特徴である協力者(パートナー)の存在が重要だということです。臨床現場との密接な連携により、実用的な技術開発と円滑な導入が可能になっています。
このブレインマインズ社の事例は、研究機関発のイノベーションを実際の医療現場に導入するまでの道筋を示す好例となっており、日本の医療AI開発においても参考になると考えています。
6.2. オックスフォード大学の腎臓移植支援AI
先日オックスフォードでヒアリングを行った際に、AIアワードのフェーズ1、つまりアイデア段階の支援を受けている興味深いプロジェクトについてお話を伺いました。これは腎臓移植の際の意思決定を支援するAIシステムの開発プロジェクトです。
この技術開発の背景には、腎臓移植特有の難しい意思決定の問題があります。移植可能な腎臓が現れた際、その臓器を受け入れるか否かの判断は非常に複雑です。なぜなら、提供される腎臓が完全に良好な状態であることは稀で、受け入れを見送れば次により良い状態の臓器が提供される可能性がある一方で、待機している間に患者の状態が悪化するリスクもあるためです。
このような複雑な意思決定を支援するため、オックスフォード大学のチームは学習データを用いてAIをトレーニングする取り組みを進めています。特に注目すべき点は、臨床の専門家であるサモス博士を研究チームに参画させていることです。AIの技術開発だけでなく、患者からの信頼を得てデータを収集する体制を整えることが、この種のプロジェクトでは極めて重要だからです。
私がオックスフォードでヒアリングを行った際に強く感じたのは、この協働体制の重要性です。AIの新技術だけを前面に出すのではなく、臨床専門家との密接な連携により、患者からの同意を得やすい環境を作り、データ収集から開発まで一貫した信頼関係を構築することができています。このような生まれたての技術であっても、有益性が期待できる場合には支援を行う英国の姿勢は、示唆に富むものだと考えています。
6.3. UK Biobankの活用状況
UK Biobankは、世界最大規模のバイオバンクとして知られており、その運営体制は非常にユニークです。チャリティ団体として設立されていますが、政府やNHSから補助金を受けており、公的機関と民間セクターを橋渡しする重要な役割を果たしています。
この組織の特筆すべき点は、そのデータベースが商業利用可能な形で設計されていることです。実際に私が英国の研究者や企業の方々とお話しする中で、多くの民間企業にとって、NHSの持つデータよりもUK Biobankのデータの方が使いやすいという声をよく耳にしました。
商業利用を可能にしている背景には、設立当初からデータの二次利用を想定した設計思想があります。データの収集方法、同意取得の方法、データの管理体制など、すべての面で商業利用の可能性を考慮に入れた仕組みが構築されています。
また、チャリティ団体として独立性を保ちながらも、政府やNHSからの補助金を受けることで、公的な信頼性と民間の柔軟性を両立させています。この中立的な立場が、データ提供者である患者からの信頼獲得にも寄与していると考えられます。
このように、UK Biobankは公共性の高いデータベースでありながら、商業利用も可能な形で運営されており、医療データの利活用における一つのモデルケースとなっています。日本においても、このような中間的な組織の存在が、医療データの有効活用を促進する可能性があると私は考えています。
7. 日本への示唆
7.1. データガバナンスの明確化
英国の事例から得られる日本への示唆として、まずデータガバナンスの明確化が挙げられます。英国では、NHSデジタルやNHS Xといった複数のデジタル関連組織をNHSイングランドに統合することで、医療分野のデジタル化に関する意思決定を一元化しました。この組織改革により、様々な意思決定やガバナンスがより効率的に行えるようになっています。
データ標準化に関して、日本は現在まさに転換期にあります。医療DX推進本部が設置され、医療DX計画も策定されましたが、現場での実装はこれからという状況です。特に重要なのは、個人を識別する番号の問題とデータの標準化です。日本ではマイナンバーを医療で直接利用することができず、保険者番号も就職や転職で変更されるという課題があります。これに対して、現在は保険者番号の履歴管理による連続的な情報の把握や、マイナンバーカードによる病院受付の実現など、徐々に対応が進んでいます。
また、データ形式の標準化も重要な課題です。日本の医療分野では、厚生労働省による標準規格は存在するものの、デジタル上のフォーマットの標準化が遅れていました。現在、国際的な標準規格であるHL7 FHIRへの対応を進めており、まずは基本的な7情報から開始しています。この標準化を進めるにあたっては、データの標準化を先に行うのか、それとも仕組みづくりを優先するのかという「鶏と卵」の問題がありますが、私は並行して進めていく必要があると考えています。
さらに、英国の事例で特筆すべきは、データ収集と利用に関する法的根拠の整備です。2012年のヘルス&ケアアクトを基盤として、データの収集・分析の権限が明確に定められており、これにより円滑なデータ利活用が可能になっています。日本においても、こうした法的基盤の整備は不可欠だと考えています。
7.2. 伴走型支援の重要性
英国のAIアワード制度から学ぶべき重要な点として、伴走型の支援体制が挙げられます。単なる資金提供だけでなく、きめ細かい支援を提供することで、医療分野におけるAI開発と実装を効果的に促進しています。
特に重要なのは、NICEのガイドラインへの掲載に必要なエビデンス収集への支援です。日本でも保険適用を受けるためには同様のエビデンス構築が必要ですが、これは開発企業にとって大きな負担となっています。英国では、NHSが様々な部門の協力を得てエビデンス収集を支援することで、この課題に対応しています。
また、私がオックスフォードでの調査で特に注目したのは、現場との協働体制の構築です。例えば、腎臓移植支援AIの開発では、臨床の専門家をプロジェクトに参画させることで、患者からの信頼獲得とデータ収集を円滑に進めることができています。このように、技術開発と現場のニーズを密接に結びつける体制が重要です。
さらに、AIアワードで採用されている4段階の支援体制は、アイデア段階から実用化まで、開発の各フェーズに応じた適切な支援を提供することを可能にしています。日本でも、このような段階的な支援体制の確立が、医療分野におけるAI開発の促進に有効であると考えています。
特に、商品化前や市場承認前の段階にある技術に対しても、有益性が期待できる場合には積極的に支援を行う英国の姿勢は、示唆に富むものです。日本においても、このような包括的な支援体制の構築が、医療分野におけるイノベーション促進の鍵になると考えています。
7.3. 透明性確保によるAI信頼性の向上
英国の事例で最も重要な示唆の一つは、透明性の確保を通じたAIへの信頼性向上の取り組みです。AIのような新しい技術は、患者側にも医療従事者側にもハードルが高く感じられます。さらに、AIの開発には質の高い大量のデータが必要となりますが、そのデータの二次利用に対する不安や抵抗感をどう払拭するかが課題となります。
私が注目したのは、NHSのウェブサイトにおける情報公開の徹底ぶりです。例えば、AIアワードで開発された技術がどのNHS施設で試験的に導入されているかを、誰でも簡単に検索・確認できるようになっています。また、データのオプトアウトについても、患者自身がオンラインで選択できる仕組みを整備し、そのオプトアウト率も定期的に公開しています。
特に印象的だったのは、オプトアウト率が5.34%程度に抑えられているという事実です。データの利活用に対する不安から多くの患者がオプトアウトを選択してしまうのではないかという懸念は日本でもよく聞かれますが、英国の事例は、適切な透明性確保とコミュニケーションによって、この課題を克服できることを示しています。
NHSは、データの利用状況を随所で公開し、市民とのコミュニケーションを重視しています。透明性の高い運用と、法的根拠の明示、さらには患者の選択権を尊重する姿勢により、信頼関係を構築しているのです。
このように、英国では透明性を確保し、市民との信頼関係を築くためのコミュニケーションを重視することで、AIやデータ利活用への理解と信頼を獲得しています。日本においても、このような透明性の高い運用とコミュニケーション戦略の採用が、医療分野におけるAI活用の促進に重要であると考えています。